7

 アトリエに戻るなり、僕はシャワーを浴びて、群青から手当てを受けた。自分で出来るよと言ったけれど、群青は「私にさせてほしい」と言ってきかなかった。

 向かい合って椅子に座り、群青は赤くれた僕の頬を冷やしながら、彼処かしこにできた擦傷に丁寧に薬をつけていく。すらりとした長い指が、そっと僕の傷口に触れる。びくり、と、思わず肌がさざなみを打つ。身じろいだ僕に群青は視線を上げ、「すまない、痛むか?」と尋ねた。

「ううん……平気」

 僕が首を横に振ると、群青は「そうか」と再び視線を落とし、さっきよりも一層優しい手つきで、傷のひとつひとつに薬を塗っていった。

「……群青」

「うん?」

「どうして、僕があの場所にいるって、分かったの?」

 そもそも、どうして、探しに来てくれたの?

「それは……君が時間になっても戻らないから、心配して……」

「えっ、でも、モデルの時間は四時からじゃ……」

「違う。三時だ」

「…………ごめんなさい」

「いや、そんなことはいい」

 そっと群青の指が僕の体から離れて、くるくると塗り薬の蓋を閉める。

「君が戻ってきてよかった」

 言葉とともに、群青は、ふっと口もとを笑みのかたちに緩めた。淡い、あわい、微笑だった。僕の心臓が、ぎゅっと強く心拍を打つ。やめてよ、と言いたかった。思い上がってしまいそうになるから。でも言えなかった。穏やかで柔らかな群青の笑顔は、手を伸ばしたくなるくらい嬉しくて、掛けられた優しい言葉は、胸の奥にしんしんと沁みて、心がけてしまいそうなくらい温かかった。

 愛されなくていいはずだった。彼が僕を大切にしてくれるのも、優しくしてくれるのも、僕が彼の愛するひとをキャンバスに描き出すためのモデルだからだ。それでいい、それでいいんだ。そのはずだったんだ。


――本当に?


 ささやく自分の声を無視する。愛されたいなんて、願うものか。僕は死者と同じてつは踏まない。

「……花を」

「うん?」

「花を、持っていたようだが……」

「うん……」

 聞いたから、湊さんのこと。

「……そうか」

 群青は目を伏せた。

「手向けようとしてくれたのだな」

 静かに立ち上がり、キャビネットから缶コーヒーを取る。

「君も飲むか?」

「うん」

 差し出された缶コーヒーを受け取る。再び椅子に掛け、群青はプルタブを開けた。

「君と出会ったのは……私が湊を喪った場所だった」

 缶を両手で握り込み、口をつけないまま、群青は静かな声で言った。

「貴方は……」

 僕もプルタブを開ける。コーヒーの香りが、油絵具の匂いに混じって、僕たちを包んでいく。

「湊さんを、愛していたんだね」

 僕は言った。心は不思議と、穏やかに凪いでいた。さざなみひとつ立てずに、しんと群青の姿を映していた。

「……愛せて、いたのだろうか……」

 分からない、と群青は首を横に振った。

「愛し方が分からなかった。どうすれば愛したことになるのか。どうすれば正しく愛せるのか」

 ぎゅっと、缶を握る群青の手に力が込められる。

「抱くべきだったのだろうか。あるいは、抱かれるべきだったのだろうか。しかし私は、抱くことも、抱かれることも、望めなかった。私の体など、腕以外ならいくらでもくれてやれるものだからだ」

 あぁ、そうか、と僕は合点した。だから群青は、傑流スグル・サクマに体を明け渡したのだろう。愛していないから、くれてやった。ぶつけられる欲望を、空っぽの体に、易々やすやすと吞み込めた。いつかの僕が、世界に対してしていたのと同じに。

「貴方にとっては……描くことが、愛することだったんだね」

「……そう……なのだろうか……」

 分からない、と群青は再び首を横に振る。

「ただ……描いているあいだは、夢のように幸福だった」

 懺悔のように、告解のように、群青は心からの言葉を吐いた。

「私は……私の欲は醜くて、人に注ぐことを戒めていた。汚したくなかったからだ。美しいままで、描いて、描いて、描きつづけて……ひたすらに、大切にしたかった」

 それでも……と群青は一度、言葉を切り、逡巡を挟んで、続けた。

「喪ったということは、私の愛し方は、間違っていたのだろう」

 そんなことない、と即答することは簡単だった。けれど、できなかった。言えばきっと、僕は求めてしまうから。求めたくなかった。欲しがりたくなかった。

 だって、望めば、奪われるから。世界に。ずっと、そうだった。望めば即座に踏みにじられる。大切なものは、易々と打ち砕かれる。だから、望みたくなかった。群青。僕は、貴方を、失いたくない。

 いつから、なんて自問に答えは容易たやすく用意できた。最初からだよ。群青。貴方が、僕に、声を掛けてくれたときから。貴方が、僕の存在を、ひとりの人間の命として、重んじてくれた瞬間から。

 ひたすらに存在を軽んじられる日々の果てに、飛び降りたかったのは本当。自分の全部を終わらせたかったのも本当。でも、甘くずるく臆病な僕は、心のどこかで、最後のさいごに奇跡が起こることを求めていた。誰かに、何かに、救われることを、心の底では切望していた。叶えられるべきではなかっただろう。奇跡など起きずに、やっぱりそうだよねと絶望して、僕は死んでいくべきだったのだろう。けれど群青、貴方が、奇跡を起こした。あのとき終わるはずだった僕の時間を延ばして、生きる場所と、理由をくれた。

「僕を大切にしてくれるのは、僕が湊さんに似ているから?」

 それでいい、と思った。そうだとうなずいてくれればいいと思った。群青が湊さんを愛したきっかけは、理想のモデルになり得たからだろう。キャンバスの中にいる、群青の理想の似姿だったからだろう。そして僕は、湊さんに似ていた。だから群青の目にとまった。見出された。そうでしょう? 群青。

「それは、違う」

 凪いだ水面に、澄みきった雫を一滴、落とすように、群青は答えた。思わず顔を上げると、少し険しい色で、群青は僕を見つめていた。

「私は、君を湊と比較したことは、一度だってない」

「え……?」

 僕は瞠目する。

「でも、僕は湊さんに似ているんじゃ……」

「言っただろう。君がいい、と」

 はっとした。そうだ、群青は、ずっと言ってくれていたじゃないか。伝えつづけてくれていたじゃないか。君がいい、と。僕がいい、と。

 どうして、と僕はこらえきれずに顔を伏せる。どうして貴方は、僕の欲しい言葉をくれるの。心の奥底に封じている、真に求める答えをくれるの。心を、くれるの。

「君と出会った日、私があの場所にいたのは、確かに、湊のことがあったからだ。湊が私を求めていたならば、彼のあとを追うことで、それに応えることができればと思った」

 でも、そこに、君がいた。

「君を見て、私は……また描きたいと、願ったのだ。まだ生きたいと、望んだのだ。湊は私を許さないだろう。恨むだろう。それでも私は……君を描いて生きたい」

 一言、ひとこと、群青は言葉を編んでいく。僕に伝えるために、紡いでいく。

 僕のために。僕ひとりのために。

「……それって」

 嬉しくて、泣きたいほどに心が飽和して、下手くそな笑顔で、僕は、

「まるで、ひとめ惚れの告白みたいだ」

 めちゃくちゃな思考で、そう言ったら、群青は戸惑ったように瞳を揺らして、

「そのつもりだったのだが……」

 なんて、真面目な顔で、返してくる。

 やっぱり不思議で、変な人だ、群青。

 不思議で、変で、愛しい人だ。

「私は……願わくは、君を生涯、描かせてほしいと思っている」

「いいの? 僕は人間だから、歳をとるよ。青年のままじゃいられない。いつか、貴方の絵のモデルに相応ふさわしくなくなるときがくるんだよ」

「歳など些細な変化だ。私が描いているのは肖像画ではないのだから」

「本当に、いいの? 僕には何もないよ。学だって、金だって」

「学とモデルは関係ないだろう。それに、君がいれば、私は絵が描ける。私が絵を描けば、金が手に入る。何も問題がない」

「でも……」

 でも、でも、でも……後から、あとから、なけなしの反駁が湧いてくる。

 信じられなくて。いや、違う。信じたくて。

「本当に……ほんとうに、僕で、いいの?」

「君がいい、と言っている」

 どうして……どうして、世界は、いつから、こんなに僕に優しくなったの。僕に与えてくれるようになったの。群青。僕の世界を、根底から塗り替えたのは、貴方だ。

「信じて、いいの?」

「信じてほしいと、願っている」

 ねえ、世界。僕はまだ怖いよ。信じて、求めて、失うのが怖いよ。でも信じたいと思うよ。求めたいと望むよ。失いたくないと、願いつづけるよ。

「ずっと私のモデルでいてくれ、渚」

「僕も、ずっと、群青のモデルでいたい」


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