プロローグ

 灼熱の太陽がグラウンドの部活動の生徒たちを容赦なくギラギラと照らしつける。

 八月の下旬、夏休みもそろそろ終わろうとしていたころ、草薙くさなぎとおるは練習にひといき入れて校舎の日陰で休んでいた。


「はい、透くん」


 氷の入ったドリンクをすぐに一人の女の子が持ってきた。


「サンキュ、あおい


 透にドリンクを渡した女の子ははなぶさ葵といって、透の所属している陸上部のマネージャーだった。普段は大人しくて控えめだが、とても気の利く女の子だった。


「足の調子はどう?」

「ああ。もう完全に復活したよ」


 透は少し前に足をくじいて怪我をしてしまい、しばらく部活を見学していた。

 ほんの二ヶ月前のことだったが、透はその間に二つの異なる世界線に飛ばされるという不思議な体験をしていた。

 元々は同じクラスで高校から入学してきた美少女、葛城院さいじょういん彩香あやかに夢中になり、彼女とどうにかして仲良くなりたいと思っていたら、ある日突然に時間が戻されてしまった。しかし正確にはそこは別の世界線で、透は〝やり直し〟をすることによって彩香と付き合うことができた。

 そして二回目は、葵の性格が全く異なる世界線で、高飛車で自信家の彼女が支配するクラスとなっていた。しかしそこで高校から入学してきた彩香との対立が生じ、やがてそれはクラスの人間をも巻き込んで大きな対立構造が生まれてしまい、葵を崇拝する女の子によって彩香が危険な目に遭ってしまった。

 今となっては夢を見ていたかのような出来事ではあったが、やっぱり自分は現実の世界が一番性に合っているんだなと思っていた。


(二回もあんな経験していたのに、元のこの世界はまだようやく夏休みが終わるところか……それにしても、やっぱりこの葵が一番ほっとするな)


 彩香と結ばれた世界線では葵の存在が他人になっていたし、次の世界線でも元の葵とは全く異なる性格だった。だから、ようやく元の世界の優しい葵と再会できた気がして嬉しかった。

 思わず透は微笑んだまま葵を見ていた。


「な――なあに?」


 葵は焦ったように言った。


「いや、なんでも」

「もう――なんだか前からそればっかり」


 葵はそそくさと立ち上がってグラウンドの方に戻っていった。この世界に戻ってきてしばらくは優しい葵に飢えていた――と言ってしまうと大げさかもしれないが、葵が高飛車な世界から戻ってきたせいもあってこんなことが多かった。



 ◇ ◇ ◇



 部活が終わると二人の親友である夕菅ゆうすげ健一けんいちも加えて三人で学校を出た。


「あーあ、まだ数学の宿題が大量に残ってて死にそうだ……」


 健一がぼやいた。すると透も頭を抱えて、


「俺もだ……英語なんかほとんど終わってねえ」

「あはは……もう少しで夏休み終わっちゃうよ」


 すると二人は葵に向き直って、


「葵さん――お願いがあるのですが」

「……やっぱりそうなっちゃうんだね」


 葵は困ったように笑った。


「じゃあ、明日私の家に来る?」

「本当ですか?! ありがとうございます!」

「俺、葵さんのこと信じてましたよ」

「あはは……」


 結局去年の中三のときと同じ流れになっていた。

 透たちの通う学校は私立の進学校で、共に附属中学から今の高校に内部進学していた。葵だけは初等部から通っており、成績はほぼトップクラスを維持していた。

 なので得意な理科以外低空飛行を続けていた透や、同じく勉強はそれほど得意でない健一も、たびたびこうして葵を頼ったりしていたのだ。



 ◇ ◇ ◇



 翌日、透は家を出ると炎天下の中、葵の家へと向かって歩いていた。葵の家は透の近所なので一緒に学校へ行き、学校の最寄り駅で健一と合流して三人で行くのがお決まりとなっていた。

 やがて葵の家の前の門にたどり着く。


(何度見てもすげえ家だ)


 葵の家はこの地区でも一番の敷地の広さで、大きく瀟洒しょうしゃな家を構えており、その手前にはロータリーがある。

 というのも、葵の家は江戸時代から続く医師の家系で父親が大きな病院の院長を務めており、言わば葵はお嬢様だった。

 小学校時代は車で送り迎えをしてもらっていたが、中学で透たちと友達になると、一緒に歩いて通うようになった。

 それに普段は目立たない大人しい性格なので、主に中学校から入学をする生徒の多い透の学校では、彼女が有名な医師の家系である英家の令嬢であるということを知らない生徒はたくさんいた。

 葵の家の門の横にあるインターホンを押して名乗ると、通用口のドアのロックが解除された。そして中庭とロータリーを通っていくと家のドアが開いて葵が出てきた。


「おはよう。透くん」

「おはよ。今日も暑いな」

「入って」


 葵は透を中に入れると広い一室に案内した。去年もここで休み期間中の課題をやっていた。


「ああ、涼しい」

「いま飲み物取りに行くね」


 葵はそう言って一旦部屋を出ていき、透に冷たい飲み物を持ってきてあげた。


「ありがとう」


 やっぱりこの世界の葵はいいな――透は葵の優しさと気配りの良さをありがたく感じていた。


(……とはいえ、〝女王様〟の葵も素の部分はとても可愛かったしな――って、俺また何考えてる)


 透はブンブンと首を振った。


「どうしたの?」

「いや、なんでも――そういや『最果てのアクアリウム』のブルーレイが出るんだよな。完結編の」

「うん。私もう予約しちゃった」


 葵は楽しみにしながら言った。


「そうだ、透くんは映画は観ていないでしょ? 第一部と第二部貸してあげようか? それとも私の家で観る?」


 完結編はこの間の葵が女王様の世界線にいたときに映画館のVIPルームで観たし、第一部と第二部もこの家のシアタールームで観ていた。

 ただ、この元の世界では完結編はすでに上映された後なので、小説だけ読んだという風に葵に伝えていた。


「そうだな。今度葵の家で観たいな」

「よし、これで透くんもコンプリートだね」


 透くんも、というのは、透はこの映画には特に興味がなく、ここの世界でも葵に映画に誘われていたものの断わっており、葵と健一の二人だけで映画を観に行っていたのだ。


「なら健一も誘って――いや、あいつは映画館で観たか」


 するとインターホンの音が鳴った。


「噂をすれば、か?」


 どうやら健一が来たようで、「涼しい!」と言いながらやってきた。


「やっぱり葵の家は最高だな」

「だよな」

「けど二人とも、まだ始めてもないんだからね。早速始めましょ」

「へい」


 二人とも夏休みの課題をカバンから取り出し、課題に取り組むことにした。



 ◇ ◇ ◇



 今日ほぼ一日取り組んだのと葵のおかげで二人の課題はだいぶ進み、何とか終わらせられそうだった。


「は~今日一日マジで死ぬほどやったわ」


 透はテーブルの上に突っ伏しながら言った。


「俺もだ」

「二人とも本当によく頑張ったね」


 葵は微笑んで言った。


「次からはため込まないこと」

「ハイ……」


 夕方を過ぎたころに二人は葵の家を後にした。


「これでとりあえず無事に夏休みは乗り越えられそうだ」


 健一が言った。


「そうだな」

「ところでさ、葛城院さんと連絡とってるか?」

「え? いや、特に……というか連絡先も知らないし」

「だよな……やっぱり高崎たかさきと付き合っているのかな」

「……」


 高崎公平こうへい――女子から人気のある男子で、彩香とは一学期が終わるころにそんな噂も出ていたが、実際付き合い始めたのかはまだわからなかった。


「ま、どうせ二学期ももうすぐ始まるし。じゃな」


 門を出たところで透は健一と別れ、家に向かって歩き始めた。


(……)


 元のこの世界では、彩香と公平はいい雰囲気になっていた。あのままであればきっと付き合い始めているだろうと透も思った。


(……高崎みたいなやつが一番お似合いだよな。あいつならきっと……)


 最初に飛ばされた世界線では透と彩香は恋人同士になった。そしてこの間の葵が女王様だった世界線でも彩香は自分に好意を持ってくれた。

 それを思うと少し複雑な気持ちもしたが、彼女が幸せになってくれるのならそれでいいんだ、と自分に言い聞かせるように思った。

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