少女の頃  ー太陽は牡羊座

 チャイムを合図に、みんなが慌ただしく席を立った。新しい教室はまだ、どこかよそよそしい空気に満ちている。

 小学校の残りの一年をこのメンバーで過ごすのだ。始業式が終わって移動した教室では、元々同じクラスだったらしい子達が集まって、ひそひそと何やら内緒話をしながら笑いあっていた。一学年にクラスは三つ。クラス替えは毎年行われるため、ほとんどの生徒と一度は同じクラスになったことはある。ただ、教室の中は誰かが少しでも入れ替われば、全く違う空気になる。と、亜美は思っている。

 委員や係を決めて、ほんのすこしずつ教室の空気はやわらいだ気がするけれど、まだまだみんなも周りを探っている様子だ。

 

 亜美ももれなくその一人だ。亜美はクラスで浮いているわけでもなければ、人気者でもなかった。本当に普通の女の子だ。誰とでも話をするけれど、とても仲の良い子がいるというわけでもない。幼馴染みたいな関係で、親友と呼べる子もいるのだけれど、その子とはかわいそうに、クラスが別々になってしまった。かといって、短い休みの時間にその子のクラスへ遊びに行けるほどの勇気があるわけでもなかった。親友をたまに見かけるけれど、その子はそれなりにクラスでうまくやっているようだった。六年生は修学旅行も控えているから、それまでにはどうにか一緒に回れるくらいの友達を作らなければ、と亜美は思う。

 片平さんが教室から出て行くのが見えて、慌ててあとを追いかけた。

 「片平さん」

 思いきって、その子の後ろ姿に声をかける。片平さんは慌てて追いかける亜美のことを廊下で止まって待っていてくれた。亜美追いつくと、

 「早く行こう」

 と笑った。亜美はそれだけでほっとして救われた気持ちになった。

 人気がないと思っていた保健係になれなかった亜美は給食係になった。みんなは、ほぼお昼休みのような時間に給食の準備などしたくないらしい。重たい食器を運ばなくてはならないし、ちゃんと白衣も準備しないといけない。給食当番はみんなやるけれど、給食室からみんなの分を全部持ってきて、返すのも給食係の仕事だ。給食の前後の時間がいかにその後の昼休みのために重要なのかを、子供たちはみんな理解している。

 給食室は一階にあるから階段を降りていかなければならない。五年生から亜美たちの教室は三階になった。教室からは校庭が見下ろせるし、空を遠くまで見渡すことができるのは好きだけれど、体育の時間は校庭まで急がなくてはいけないし、体育館やプールにいくにも結構な距離がある。図書室も音楽室も二階にあるし、正直ちょっと面倒臭い。亜美を含めたほとんどの生徒がそう思っていた。

 

 亜美は片平さんの横顔をチラリと盗みみた。大人っぽいなぁと思う。長いまつ毛やすらりと伸びた手足がモデルさんみたい、と亜美は思う。来年には亜美も中学生だ。中学生!亜美は心の中で呟く。町内会のみこちゃんも、もう中学三年生になる。中学三年生なんて亜美にとってはずいぶん大人の女の人に見える。みこちゃんに言ったことは無いけれど、実は遠くに行ってしまったようで、ちょっとだけ寂しいと亜美は思っている。

 片平さんと私、おんなじ学年でおんなじクラスなのになんか全然違う。この頃亜美はそんなことを考える。今まで誰かと誰かを比べることなど全くなかった。それが大人になるということだ、と私たちは知っているが、亜美はまだあんまりピンと来ていない。心の居心地の悪さには気づいているものの、なんか嫌だなと思うだけで、あんまり深く考えないようにしているようだった。

 「片平さんは今まで給食係やったことある?」

 そう亜美は聞いた。

 「ううん、ない、初めて。なんか給食室とかちょっとドキドキするね」

 と、片平さんは言う。その無邪気な様子に亜美はなんだかうれしくなった。

 「ね、ドキドキするよね。」

 亜美もそう答えた。

 

 ガチャガチャと食器が擦れる音を聞きながら亜美たちは給食を運ぶ。

 今日はカレー。これはかなり慎重に運ばなければならない給食のメニューの一つだ。確か亜美が三年生くらいのことだったと思う。昼休みを待ちきれずふざけていた男子がぶつかった拍子に、カレーをほぼ全て床にぶちまけたのだ。その男子はこの時点ですでに『同窓会に出席するたび、カレーを盛大にぶちまけた時の話をされる男』と言う不名誉の称号を得たのだ。そう思うと、哀れでもあるし、それもまた一興だと私たちは思う。

 ぶちまけた男子たちはみんなの非難の目を十分に浴びながら、呆然と床を眺めていた。その日から数日間、なんとも言えない空気が教室に漂っていた。低学年ならまだしも、万が一六年生の亜美たちがそんな失態を犯したとなれば、学校中に知れ渡ってしまう。そうなってしまったら、トイレには誰もいない時間を見計らって行くだろう。陰口は叩かれても仕方ないかもしれないが、トイレの個室の中で、陰口を言われている外に出ていけないようになるくらいなら、人気のない時間、人気のない場所のトイレに駆け込むことになる。

 そんなことを考えていたからか、亜美は片平さんに心配されてしまった。


 無事教室にたどり着き、給食当番の子と協力しながら配膳の準備ができた。一班の人から並んでください。そう給食係の男の子が言うと、待ってましたと言わんばかりに男子が我先にと並ぶ。そこに一班の女子が冷たい目を向けながら後ろに続いた。亜美のクラスは座席ごとに班が分かれていて、配膳の時は一班から順番に並んでいく。亜美は四班。席は真ん中の後ろの方だ。後ろでいいなとクラスの誰かに言われたけど、亜美は先生と目のあいやすい後ろの席がそんなに好きではないのだ。

 

 順調に配膳は進む。二班が終わり、三班の番がもうすぐ来る。徐々に亜美の心臓が早くなる。自分の心臓の音が大きくて本気で片平さんに聞こえていないか心配になっていた。

 亜美が座っている席はちょうど三班と四班の分かれ目だ。授業中にも気になって仕方のない後ろ姿が、今は亜美の目の前にやってくる。しかも今日、幸か不幸か、亜美はカレーの担当になったのだ。みんなが大好きなカレーのルーを、ちゃんと平等にかける。学校の行事の中で、もしかしたら今が一番緊張しているかもしれない。マスクの中に細い息を吐く。

 三班の順番がやってくると、一番にあの子が並んだ。バランスよく作られた給食の器は二つ。メインのカレーとサラダ。サラダをとるとその子はご飯の係に大盛りで!と元気よく頼んでいる。あっという間に私の前にあの子が並んだ。大盛りね!ご飯の子と同じようにいう。まだ寸胴の中には大量のルーが余っている。ただし、小学生のお昼のカレーは戦争なのだ。平等。スタートは平等でなければいけない。何か言わなければ、そう思っていたら、片平さんが普通盛りに決まってるでしょ。となんなく言ってのけた。助かったと思うのと同じくらい、私が言いたかったなと、亜美は思った。ふざけた声で平然と言えればよかった。亜美はせめてもの思いで目についた一番大きなお肉を、ルーと一緒におたまにすくってご飯にかけた。


 あの子は五年生の時に引っ越してきた。残り少ない小学校生活を、誰も知らない場所で過ごすなんて、亜美にとっては想像もできなかった。ただ、あの子はあっという間にクラスに馴染んだ。すぐにたくさんの友達を作っていた。持ち前の明るさで、クラスの一部になったあの子のことを、亜美は気がつくと目で追うようになっていた。それは私たちにとっては淡い淡い気持ちで、遠くなつかしく感じる感覚だった。恋と呼ぶにはまだ早く、それでいて、強烈に心は惹かれていた。あの子がクラスで笑うたび亜美の小さな体はびくりと跳ねた。いつも耳をそばだててあの子の動向を追って、教科書を読むふりをして、小学生としては体格のいい背中を眺めて、あの子から回されるプリントをもつ亜美の細い指は力強かった。家で日記を書きながら好きかもしれないと書いては消して、汚れたページをそのままに、亜美は次のページを捲るのだった。


 給食を食べ終わったらクラスのみんなは各々好きな遊びに興じる。男子のほとんどはすぐに校庭に飛び出し、あの子ももれなくその中にいた。一緒に外へ出て行く活発な女子を横目に亜美は窓へと近づいた。すぐに、誰もいない校庭は、子供達で溢れた。

 亜美はもう、すぐにあの子を見つけることができる。今日はサッカーをやるらしい。六年生になったこのクラスでもすぐ、リーダー的存在になっていた。暖かい日差しに照らされたあの子のことが、太陽みたいに子供たちの中で光っているように亜美には見えた。誰に対しても分け隔てなく接するあの子は誰からでも人気だった。クラスが別れてしまった親友も校庭にいるのが見えた。あの子に親友が手を振っている。親友もあの子に手を振っている。

 引っ込み思案な亜美に声をかけてくれたのは親友だった。

 一緒の町内で、気づいたらいつも遊ぶようになっていた。小学校に上がる前から本当によく遊んだ。でも、付き合いが長いからといって、ベタベタと干渉しあったりはしない。小学生の割に亜美も亜美の親友も大人だった。付かず離れず、一緒に遊ぶし遊ばない時もある。それでも互いに親友と言える、亜美が大好きな女の子。

 ただ、亜美は二つ、その親友に話せていないことがある。一つは、亜美があの子を好きだということ。そしてもう一つは、他の友達から聞いた、あの子と親友が「付き合っている」という噂について、だった。引っ越しをして知らない土地で暮らすことも、小学生が「付き合う」ということも、亜美には全く現実的ではないのだった。


 「占いやらない?

 教室に残っていた女子の声にびっくりして振り返る。教室は数人の女子だけになっていた。元気な子は外へ行き、おとなしい子は図書室や音楽室へ行っている。

 全然話したことない女の子が図書室の占いの本を自分の机の上に広げていた。その子の机を取り囲むように女の子たちが座っている。

 「亜美ちゃんもやる?」

 その中には片平さんがいた。

 亜美ちゃん、と呼ばれたことに喜ぶよりも、びっくりして

 「え?いいの?」

 と亜美は言っていた。

 特段占いなんて興味もなかったけれど、みんなと仲良くなる口実を探していた亜美にとっては、絶好のチャンスだった。おいでよ、そうみんなが言ってくれて亜美も輪の中に入った。

 本を持っていた女の子がみんなの誕生日を聞いていく。だれだれちゃんは蟹座なんだって!だれだれちゃんは乙女座だって!性格はー、とその子が解説をしていく。当たってる!全然当たってないよー!そんなことないもんっ!口々にいいながらそれはそれは楽しそうに笑っている。あ、だれだれちゃんの相性のいい星座は、獅子座だって!本を広げる女の子がいっそうに楽しそうな声を出す。みんなもつられてきゃあきゃあと盛り上がっている。すると本を広げる女の子が亜美に向かって言う。

 「亜美ちゃんの相性のいい正座は牡羊座だって!」

 そうなんだ、とかなんとか亜美が言ったけれど、みんなはすぐに自分の星座のあれこれを調べて欲しいと女の子せがんでいて、大して聞いていなかった。


 三月二十九日。あの子の誕生日。俺の誕生日は春休みだし誰にも祝ってもらえない。そんなことをあの子がクラスで話していたのを聞いたことがある。亜美はそれをちゃんと覚えていた。実は漫画についていた付録の手帳にひっそりとその日にシールも貼っている。その日だけが派手に見えるかもしれないと、手帳の縁をシールで囲った。誰に見せるわけでもないのに何だか気恥ずかしくてそうした。

 

 放課後は親友と校庭へでた。クラスが離れてしまったこと、その後のクラスの様子、クラスで起きている最近の出来事、係の話、片平さんの話。取り止めのない話をして二人でブランコを漕いだ。五月晴れの空は夕焼けが綺麗だった。風もない穏やかな校庭に子供達の声が響いている。そして校庭の真ん中では、あの子が友達と泥だらけになりながらサッカーをしている。お昼休みの決着をつけるらしいのだと、親友が言った。

 亜美と正反対の親友は、男子に負けないくらいスポーツが上手だった。亜美は親友に混ざらなくていいのかと何気なく聞いてみた。いい、そうキッパリと親友はいう。 「今日は亜美と遊ぶんだもん。」

 そう目を細くして思い切り笑った。

 親友の笑顔を見て亜美は思い出す。そうだ、彼女の誕生日。

 四月十五日。

 何度も祝った誕生日。

 亜美は、さっきまで感じていた心の違和感が少し解けるのを感じた。まだ夏には遠い春の日だが、眩しい笑顔がすぐそばにあった。校庭の真ん中でサッカーをするあの子をみる。少年、と言う言葉がぴったりなあの子とも目があった。

 遠くからでもわかる満面の笑みで、あの子が亜美たちに大きく手を振る。


 自分の感じている気持ちがなんなのか、それは今の亜美にはよくわからない。

 けれど、今はこれでいいのだと、唐突に思った。私の太陽がこんなそばにふたつもあること。それが今何よりも一番大切で、一番大好きなものだと思ったのだ。

 親友と笑う春の夕暮れ。校庭に響く子供の声。泥だらけの少年。校舎から聴こえる帰宅を促すアナウンス。

 亜美は思い切り地面を蹴った。ブランコを強く漕ぐ。何度も何度も地面を蹴った。ブランコが音をたてながら亜美の体を支えている。親友も隣で、亜美よりもさらに強く、何度も地面を蹴った。二人は顔を見合わせると、声を上げて笑った。


 ブランコが晴れた空に二人を近づけ、二人の影は、大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら、いつまでも地面の上を舞っていた。


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