まだ、いってあげない ー海を泳ぐ魚座
墓参りに行かなきゃな、と思っているけど、あいつが今、何処に居るのかわからなくて、いつも途方に暮れてしまう。少し遠いけれど行けなくはない距離にお墓はあって、仕事が休みの日にでも行くことはできる。
ただどうしても、その墓にあいつがいる気がしなくて困る。
そんな歌があるけど、言い得て妙だ。物理的には納骨されたのだからそこにいるわけだ。ただ、それはいるというよりも、ある、という表現の方が正しい気がする。
しばらく行っていないあいつの実家には遺影があるはずだ。おばさんはあいつのことをとても愛していたし、信頼していたから、結構早い段階で心の整理をつけていたように、葬儀の日は見えた。周りから見える状態なんて真実ではないだろうけど、毅然と振る舞っていたおばさんからは覚悟みたいなものが見えたのだった。
遺影に使うには、ど派手なシャツを着たあいつの写真は、家族旅行中の一枚らしく、ふにゃふにゃと笑っていた。可愛い顔でしょと、おばさんは誇らしげに言った。
ただ、それもやっぱりいるじゃなくて、ある、なのだ。遺影があるだけのこと。
「車出すから今日の夜付き合って」
「は?私、明日仕事なんだけど」
「いーからいーから、今日は今日しかないんだから、ね」
出会った頃から、突然のことには慣れているけど、あいつの行動力はひょろりと伸びたこの身体のどこにあるんだと、いつも不思議な気持ちでいた。社会人になったのに、いつも何をしているか全く行動の読めない男だった。突然家の前に乗りつけてきて、付き合ってよ、などという。車出すから付き合って、は、もう半ば強制だろう。
仕事なんだから帰って。そう言ってもよかったけれど、そう言えば私に罪悪感が生まれることを、あいつは遺伝子で知っているようなところがあった。考えているのではない。そういう肌感覚みたいなものがとても鋭い男だった。
人の迷惑も顧みない男なのに、もういい大人なんだからさぁ、とまでは言う気分に毎度ならなかった。今思えば自分だけでも肯定してあげたい。否定しないでいたい。そう思わせられていたんだと思う。周りの誰からも好かれているし、否定されているところなんて一度もみたことがないけれど、私だけでも。そう思わせる男だった。
私だって心の底ではいつまでも子供でいたいと思っている。社会とか会社とか人生とか、そういうものを深く考えずに生きていたい。自分ではどうにもできないから、誰かがここから連れ出してくれないかな。そう思っていた。そういうことも察知する能力をあの男は持っていた。
垣間見える子供のような無邪気さと、大人の男の危うさと隙みたいなものを全部ひっくるめて器用に扱っていた。そう私はずっと、思っていた。
車の中は煙草の匂いが充満している。白檀の香りもほのかにする。多分あいつが下手すれば通報されそうな量のお香を勢いよく炊いていているから、身体のそこらじゅうに染み付いているのだろう。いろんな匂いにむせ返りそうだった。
「ごめんねぇ」
一欠片も思っていないようにも見えるし、心底謝っているみたいな不可思議な顔をあいつはしていた。それがどうしても憎めないと、あいつに恋していた女の誰かがどこかで言っていた覚えがある。果たしてどこの、いつの女だったか。思い出そうとしてやめた。私には関係のない話だったのだ。どこまでも。
「で、どこ行くの」
「いいとこだよ、もう」
「そう、もういいや、早く出して」
「はぁい」
あいつがずっと乗っている古い車は、今にも息絶えそうにぼふんと鈍い音を立てて進んだ。絶対にお前は事故死する、と私は何度も断言していたけど、それはない、とあいつは断固否定していた。宝物だからこいつは、と愛おしそうにハンドルをさすっていた。あいつのいう通り、私が知る限り、交通事故を起こしたことは一度もなかった。あの日、深夜に突然震えたスマホであいつの話を聞いた時は、絶対に事故だと思ったのに。
車に乗るとあいつはスマートフォンを差し出す。いくつもの線が車のあちこちから伸びていてスマートフォンに繋がっている。機械に疎い私はどうやってこの古臭い車から音楽が流れているのか皆目検討もつかなかった。
スマホの音楽プレイヤーのアプリをタップする。私が普段聴く音楽は全く入っていない。いくつものプレイリストを開かずスクロールする。一番下まで行くと私が作ったプレイリストが残っていた。
よっちゃんの好きな曲。そんなタイトルはつけた覚えがないが、それには気付かぬふりをして、シャッフルにして流した。私が好きな曲はシティーポップというジャンルらしい。音楽のこともよくわからない。あいつは音楽にもとても詳しい男だった。
いくつものプレイリストをしばらく眺める。酒井ちゃん、庄司ちゃん、小林ちゃん、立花ちゃん、その他もろもろ。一番下のよっちゃん。それにきっと意味はない。
私たちは車の中にいると全然喋らない。音楽がずっと鳴っているだけだ。
サイドブレーキの場所には煙草がいつも置いてある。タバコの銘柄はよく知らないけれど、あいつが吸う銘柄はハイライト。それだけ覚えている。
タバコの箱はいつも角がおれ曲っている。中に入っているらしい銀紙はいつもご丁寧に全て外されている。あいつ曰く、一度全部タバコを出して銀紙だけ捨てているらしい。なぜそんなことをするのかは聞いたことがなかった。あいつのタバコの箱の中にはタバコの葉がいつもたくさんこぼれていた。
一本取り出して咥えると、右からライターが差し出された。カチっと音楽の合間でライターの音ばかり響いた。
「みてみて綺麗でしょ。好きだよね、こういうとこ、よっちゃんは」
「・・・いいじゃん」
「そうだと思ったんだよねぇ」
と、いつもの間延びした声であいつは言った。
辿り着いたのは工場地帯だった。所謂工場夜景だ。
夜景は好きだ。温暖化がどうのとか言っているけれど、この世で一番綺麗なものだと思う。どうせ地球が滅びるのなんて私が死んでからのことだ。どう滅びていくかなんてどうでもいい。原因とか、理由なんて知らなくてもいい。
そんなことより私には、もっと知りたいことが山ほどあった。知らなければいけないことがあった。なんであの日、私を夜連れ出してくれたのかも、あいつがいなくなった理由も、大事だと言ったものを全て残し、何も道連れにせず一人で、遠くへ言ってしまった理由も。
せめて車だけでも連れていってくれたなら、少しは納得できたのかもしれないのに。
「生まれ変わったら何になりたい」
「全然生まれ変わりたくなんて無い」
「ええー、俺は人間がいいなぁ、もう一回」
「しんどいことばっかなのに?」
「それがいいんじゃないの」
「そんなもん?」
「そんなもんよ」
そんな話をしたのはいつだっただろうか。生まれ変わるなんて、今でもまっぴらだと思っている。あいつはいつ生まれ変わるのだろう。私がこの世からいなくなる前には生まれ変わっているだろうか。
もう一度人間になるのは無理だと思う。ちゃんと全うしなきゃ神様は生まれ変わらせてくれないよ、と言えばよかったんだろうか。
あの日から私とあいつには、はっきりとした線が引かれた気がしている。あいつが思い切り深く引いた境界線が悔しい。悲しいとか寂しいとかそういうのはちょっと違う気がする。ものすごく悔しい。ただそれだけ。
「よっちゃん」
あいつの声を聞くといつも眠たくなった。深く穏やかで、あまり抑揚のない声。もしかしたら私が眠らないように、車の中では全然話さなかったのかもしれない。そんなことも聞かなかったな。
「よっちゃん」
何度も名前を呼ぶ声がする。
うるさいなぁ、何、ちゃんと聞こえてるよ。
「あー、よかった。ちゃんと聞こえてるね」
聞こえてる。何、あんた、どこにいるの?
「どこだろう。どこまで来たかな?よっちゃんわかる?」
わかるわけないでしょう。あんたのことは何一つわかんないよ。結局。
「よっちゃんもわからないかぁ、それなら俺、もっとわからないなぁ」
何、それ、意味わかんない。
・・・ん、なんか、あったかい、ここ。
「あ、それは俺も思ったよ、結構あったかいよね」
うん、なんか体も軽い気がする。けど、なんも見えないな。
「でも聞こえるでしょ」
うん、聞こえるよ、あんたの声は。
「ちがうよ、ちがう。よく聞いて、耳澄ましてごらんよ」
耳をすます?
「うん、ほら、よおく聞いて」
言われた通りに耳を澄ます。何も聞こえてこない。あいつの息遣いが聞こえる。なんなの、と言おうとした時、遠くからわずかに音がした。
あ、聞こえる。なんの音だろう。
「もっとちゃんと、耳、澄まして」
深夜のテレビの砂嵐のような音が少しづつ近づいてくる。だんだん輪郭が作られた音は、波の音のように聞こえた。
波?
「あ、聞こえた?さすがだね、よっちゃん」
川、じゃないね。・・・海、海の波の音が聞こえる。
「そう、そうみたいなの、海の音だよね」
・・・好きだなぁ、この音。
「ね、いいよね、波の音。俺も好きなんだ。ここだとずっと聞こえるんだよ。」
え?ここ海なの?
「え?海なのかな?・・・そうかも、海かもしれない」
感覚はないけど鼻で息をしてみる。潮の匂いだってしてきた。
波の音しか聞こえないじゃん。それに海の匂いもするじゃん。海でしょ。この音と匂いで海以外に何があるの。バカじゃない?
「バカなのかなぁ、そうかもしれない。よっちゃんのそういうまっすぐなところ、好きだなぁ」
何それ、今まで聞いたことないよ、そんなこと。
「そうだっけ?言ったことある気がするんだけどな」
ないよ、絶対にない。
「絶対かぁ、でもよっちゃん、絶対って言い切ること、ぜったい外すよね。」
あいつの顔は見えないのに、泣き笑いの顔でこっちをみている気がする。
「ここ気持ちいいよね、ずっとここにいたいな」
うん、気持ちいい。あったかいし、体がゆらゆらしてる気がする。
「よっちゃんも、一緒にここにいる?」
あいつが私をみているのがわかる。私からはあいつの影すら見えないのに、あいつの視線を感じる。
「・・・ごめんね、よっちゃん」
一欠片も思っていないようにも、心底謝っているような不可思議な顔を今もあいつはしているんだろう。もう一度だけ、その顔を見たかった。
それもいいかもしれない・・・。でも、帰るよ。私は。
「そっか。うん、それがいいね、よっちゃんありがとう、また会いにきてね」
声だけじゃわからない。あいつがどんな表情をしているのか。全然わからないことが、ものすごく腹立たしい。全部わからなくてもどうだってよかったのに、今はめちゃくちゃ腹立たしい。
ふざけんじゃないよ、なんで私ばっかり、あんたの言うこと聞かなくちゃならないの。最後まで、私の願いは叶えないくせに。あんたも少しは待っていなさい。少しくらい我慢を覚えなさい。残される人の気持ちを、少しは理解しなさい。あんたがもうそこにいたくない、もう飽きた、どこかへ行きたい。そう思うくらいの時が過ぎたら、いつか会える。だからそれまで、私は絶対に、会いに行かないから。
「よっちゃん、ありがとう」
抑揚のない声でゆっくりとあいつは言った。あんたは今、笑ってる?
・・・あんたの為じゃない。私は自分のために行かないの。あんたの為じゃないんだから。
「うん、でも、ありがとう、よっちゃん、元気で」
うん、あんたも・・・元気で。
目を開いてからほんの少しの間があって電子音が鳴った。アラームが鳴る前に目が覚めたなんて初めてかもしれない。寝ている間も薄く流しているラジオから、甲高いアナウンサーらしき女の声が聞こえる。
おはようございます!みなさん聞こえていますか?私は海に来ています!こちらでは気持ちの良い冬晴れの空が広がっています。
鼻の奥がつんとした。私はまだ海には行けない。行かない。
掛け布団を勢いよく足で跳ね上げてベットから降りると、ベランダのカーテンを開けた。朝の日差しが寝起きの目に刺さる。コンタクトレンズを外した目からは、ぼやけて陽の光を見るのがやっとだったけど、思い切り窓を全開にした。
ぴゅうっと強い風が吹き込んでくる。布団で温められていた体をあっという間に冷やした。籠っていた部屋の空気が、外気で撹拌されていく。
ベランダの窓を細くして、洗面所にいく。給湯器のスイッチを押し、勢いよく水を出した。洗面台に流れる水がお湯に変わったのを見計らって、顔を洗った。冷えた指先がジンジンと痛い。
リビングのテレビをつけると、朝の情報番組から芸能人のおめでたいニュースが流れてきた。ペットボトルのコーヒーを冷蔵庫から取り出し、カップにどぼどぼと入れて、電子レンジに突っ込む。テレビは天気予報コーナーに切り替わった。
今朝は晴れ、昼間にはさらに陽がさしてポカポカ陽気でしょう。
夜、ソファーに出しておいた洋服はそのままに、クローゼットから真っ赤なワンピースを取り出した。少し生地は薄いけれど、コートも着るのだしニットのカーディガンを羽織れば大丈夫だろう。
温まったコーヒーを一気に飲み干してシンクに突っ込む。まだちょっと熱くて、出来ていた口内炎が少し傷んだ。気になるけど触らないように注意していた治りかけの口内炎を、わざと舌でぐいっと押し込んだ。ビリビリとする痛みに思わず口を大きく開いた。
スニーカーばかりのシューズボックスからほんのすこし厚底のブーツを取り出す。ちょっと埃がかぶっている気がするけど、それくらいいいや、別に。
外に出ると強い風が頬をさした。まだ朝は身震いするほどの寒さだけど、春は遠く無い場所にいるようで、早歩きで歩き出すとだんだん体の中が温まってきた。
駅までの道を歩く。うちのそばの踏切は開くのが遅いくせにすぐに電車が来るからいつも遮断機が断続的に鳴っている。緩い登り坂を足速に登る。首元が汗ばんできたからマフラーを外した。先ほどまで冷たいと思っていた風が心地よかった。
あいつはもうここにはいない。私の辿り着かない遠い場所に行ってしまった。
適当なやつだったから、きっと当分はあそこにとどまってゆらゆらと揺蕩っているに違いない。居心地がいいとか、面倒臭いとか、そういう概念が存在するかなんて私にはわからないけれど、あの男ならそうする。それか、忘れられたくないから、覚えていて欲しいから、まだしばらく留まっていよう、と思っているかもしれない。
間違っていようが間違ってなかろうが、もう本当のことを私が知ることは一生ない。それでもいい。救いなんかなくてもいい。私が決めたことを、あいつは微笑んで見届けるだろう。よっちゃん、ともう一度呼んで欲しかったと、夢でも言わなくてよかったと、心から思った。
海の匂いのかけらも無いこの街で、私は今日を生きている。
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