轍を踏む足 ー山羊座の歌声


「あなたが産まれた日はね、とても寒くて朝から雪が降っていたの。」

「ゆき?ゆきってなぁに??」

「そうね、雪が降らなくなってもうどれくらい経つかしら。」

「ふるってなぁに?」

「お空から冷たい白いふわふわが落ちてくるんだよ。」

「おそら?ふわふわ?みたい、みたい!」

「そうね、見られるかな、見られるといいね。」




「ねぇ、君さ、もうこんなの流行んないよ。一体誰が聴くのこんな歌。」

 昔の狂ったレコードのようにこの人は同じ言葉を繰り返す。俺の血と涙とそのほか汚いものも全て注いで作った曲も、流行らないの言葉一つで片付けられる。もう俺に何かを言葉にする力はない。普通になれるなら、それが一番いい。

 自分が信じることをしていればいつか時代がついてくる。とりあえず進んでいれば何かの結果がついてくる。何にもなれなくても続けていればそれで。そんな言葉が垂れ流していたテレビから聞こえる。そんなもの、才能のある一握りに限られる。成功しているやつだからこそ言えるんだろう。部屋の中は足の踏み場もないほど物で溢れかえっている。部屋の乱れは心の乱れ。心が乱れたのか、それとも部屋が先に乱れたのか。いつからだっけな。



「最近どうよ。」

「別にどうも。」

「つまんねぇなぁお前。」

 ダウンを脱いで席についた純也は、生ビールを頼んで言う。

「曲作ってんの?」

「・・・一応。」

「お前もやったら?SNS系。そーゆーので今はバズったりすんだろ?何がきっかけになるかなんて分からねぇよ?」

「俺がそういうの嫌いだって、お前が一番知ってんだろ。」

「そうだけどさ、今の時代に合わせて行かなきゃだろ?」

「お前もあのハゲ親父みたいなこと言うんだな。」

「あ?俺はまだ禿げてねぇ。」

 そう言うことじゃねぇよ、と言わなかった。説明するのもだるい。

 純也は一緒に上京してきたバンドメンバーだった。何年も前にバンドは解散したが、純也との友情は今も続いている。高校時代からの腐れ縁だからかもしれない。バンドが解散すると決まって、純也が音楽を辞めると宣言した時に、俺らの付き合いも一緒に終わってしまうかもしれないと思ったのだが、今もこうやって思いつけば酒を呑んだりしている。どれもこれも、純也の心の広さの上に成り立っていると思うのだが、そんなことは照れ臭くて一度も言ったことがない。通いなれた小さな居酒屋は、ずいぶん経った今も変わらず小汚くて、あの頃みたいだと時々錯覚する。


 純也の仕事の話を聞きながらザーサイをつまむ。聞かれたことにポツポツと答えながら、たわいない時間はあっという間に過ぎていく。幾分時間が経った頃、だらだら続いた話が途切れると、純也はおもむろに居住まいを正し、真面目な顔になった。神妙な面持ちに、嫌な予感がした。

「俺さ、結婚するんだよ。」

「・・・マジかよ、お前が?」

 ああ、きたか、と思う。

 いつか来ると思っていた日が今日だったとは。

 否応なしに突きつけられる時間の流れ。俺の周りの友人も、遠く離れた地元の友達も、同じように進んでいったから。

 ただ、そいつらと純也とでは、重さがまったく違うのだ。バンドメンバーから、ただの友達に戻って、こうやって会ってはくだらない話をして、変わらなければいいなと思って願っていたものがまた一つ消えていく。

「・・・まぁおめでとう。よかったな。」

「おう、ありがとう。」

「うん。」

「でさ・・・」

 まだあるのか、とぐったりする。純也が残った生ビールを飲み干していう。

「結婚式するんだけど、お前、歌ってくんない?」

「は?」

「披露宴でさ、歌ってくれよ。」


 

 毎週末、決まった電車の決まった車両に乗って新宿に向かう。警察とも顔見知りになって、新入りさえ紹介されるくらいになってなお、俺はいつもの場所にいる。多分俺が一番長くこの場所にいるのだろう。長くこの場所で歌っていた男の姿も、しばらく姿を見ていない。

 少し離れたところで四人組のボーカルグループが歌っている。最近の歌唱力の高いアイドルグループのカバーだ。周りを囲んでいる女の子はみんな、スマートフォンで動画を撮っている。太ももを寒空に晒して、よく風邪をひかないもんだと半ば感心する。女の子たちはみんな画面越しの彼らをみている。ちゃんと撮れているか不安なんだろう。微動だにしない。ここに彼女たちがくる理由はなんだろう。こんだけの女の子が動画を撮っているなら、ネットにはそれ以上の数の動画が溢れているはずだ。どうせその場にいるのなら、生身の彼らをみたらいいのに。

 俺の視界には、遠巻きにこちらを見てニヤニヤ笑う酔っ払いの親父と、俺が存在していていないかのように歩く人々だけが映る。

 完成したばかりの曲を歌う。否応なしに過ぎていく月日の中でも、俺の頭の中には途切れることなくメロディーが浮かぶ。むしろ年追うごとにメロディーは加速し量産される。言葉を口にするのが苦手なくせに、詩が脳味噌のどこかからか湧いてくる。   

 もういっそ曲が書けなくなればいいと思うことすらある。そうなれば終わらせることができる。自分の意思ではどうにもならないことだ。俺は俺を辞めることが出来ない。一人だ、なんて思っているわけじゃない。純也もいるし、仲間だって少ないけれどいる。でも今、ここには誰もいない。曲が書けなくならないのなら、物理的に弾けなくなればいい。声が枯れてしまえばいい。そう思うのと同じくらい、それくらいじゃあ諦められないことにも、気づいている。

 あの日は結局、もう少し考えてくれと念を押されて断りきれなかった。俺に時間を割くよりもやらなきゃいけないことがあいつには沢山あるはずだ。もう充分です、って言えるほど友人たちの苦労話は聞いてきた。式の前に離婚しそうになった奴や、その時点で愛想尽かされかけて曖昧に修復しきれていない奴も知ってる。

 と言うことはだ。

 俺が断りきれないせいで、純也たちの仲が悪くなる可能性があると言うことだ。どうせあいつが一方的に無理を言っているんだろう。俺に祝い席は似合わない。だって俺は流行らない歌を夜な夜な作っているような男だ。二人の大切な想い出に、真っ白なシーツに出来た一滴のシミみたいなもんを作る必要はない。そのシミは二人にとって、見て見ぬふりが出来ないものになる。呼ばなきゃよかったなんて、思わせたくない。


 俺のせいでスケジュールが押しているんじゃないか、という考えが、罪悪感を生み出し、また呼ばれるままいつもの居酒屋へ向かった。寒さが体に堪える。革ジャン一枚なんてもう無理で、古着屋で見つけたやけに重いモッズコートを着て歩く。体全体が重い。意図せず深いため息が漏れる。今日こそ断る。断ってやる。

 あっという間に居酒屋についた。居酒屋までがこんなに短く感じたのは久しぶりかもしれない。投げやりな毎日でもただくだらない話をする分にはとても楽しかったのだと今更思う。とりあえず暖を取るために入るんだ。そうだ、とりあえずだ。そんな風に言い聞かせた。


 居酒屋の中は暑いくらいに暖房が付いていた。上着を脱いで奥へ進むと、いつもの席に純也は座っていた。そして隣には女がいた。ああ、やっぱり。来るんじゃなかった。

「初めまして、さやかです。」

「あ、初めまして・・・」

「寒かったろ、早く座れよ。」

「・・・ああ。」

 恨めしげに純也を見たのに見ないふりをしやがった。

「おい、先に言っとけよ。」

「言ったらお前来ないだろ。」

 言葉にはせず恨めしげに純也を見た。

「すいません、急に。」

「あ、いやいや、ぜんぜん、いいんですけど、俺は暇なんで。」

 申し訳なくする彼女に焦る。純也の彼女なんて今まで何人も見てきたけど、結婚すると聞いていたら印象だって全然違う。この人が純也の奥さんになるんだと、メニューを見るふりをして盗み見た。普通に可愛い人だ。なんだよ、純也のくせに。

「とりあえず、乾杯な!」

 純也だけが心の底から楽しそうで憎らしい。さやかさんも少しだけ緊張しているように見えた。どこがいいんですか、こんなバカなやつ。

「お前、初っ端から日本酒かよ。」

「いいだろ別に、さみぃんだよ。」

 そんなに酒に強い俺ではないが、日本酒でも飲まなきゃやってらんねぇ。

 そのあとは二人の出会いや、結婚に至るまでを軽く相槌を打ちながら聞く。年齢は二つ下で、純也の会社の取引先の事務員をしているらしい。好きなものは映画と音楽。音楽の趣味があって話が盛り上がって、地元が同じだと言うことを知ったという。と言うことは俺も同じ地元なわけだが、地元は結構広いし学年も違うしで、知り合いの知り合いとかではないようだった。地元とは不思議なもので、上京して初めて身近な存在になった気がする。どこ出身なの?なんて初対面同士が必ず交わす挨拶の一つだ。同郷に会うとなぜかホッとする。不思議だよな。


「で、やってくれるだろ?」

 唐突に俺の悩みの種を突いてきた。このままうまく酔わせて楽しかったね、はいさよなら、のつもりだったのに先手を打たれた。

「・・・だから、」

「俺もやって欲しいけど、俺が言い出したんじゃねんだよ。」

「・・・は?」

 だいぶ緊張のほぐれたような様子だったさやかさんも急に真面目な顔になる。目がどことなく潤んでいるように見えるのは俺が酔ってるせいからか?

「・・・私です、私が歌って欲しいんです。」

「ってこと。」

「・・・は?なんで?・・・この馬鹿が言うならまだわかるけど。」

「なんだよ、馬鹿とは。」

「いいから、純くん。」

 キッパリとした声でさやかさんは言う。

「純くんのバンドのCD、うちにあるから、それ聴かせてもらったんです。私全部聴きました。二人が作った曲全部。」

 お前・・・と言いそうになってやめた。そんな空気じゃなかった。

「私、すごく好きです。二人が作った曲。だから、歌って欲しいんです。純くんからバンドを組んでた頃の話、沢山聞きました。私は音楽は好きだけど、何か演奏できるわけじゃありません。純くんだからって言うのはもちろんあるけど、私、好きなんです。あなたが作った曲も、歌も。だからお願いします。雪哉さん。」



 俺はマザコンだったのかもしれない。久しぶりに女の人に名前を呼ばれて、なんだか泣きそうになってしまったのだ。幼い頃に別れたままの母親の声なんて覚えていないのに、母に名前を呼ばれたような感覚になって、真っ直ぐな目に何も言えなくなって、結局こんなところにまできてしまった。式の場所にまで頭が回っておらず、招待状が送られてきてから地元で結婚式をあげるのだと気づいた。二人とも東京にいるし、東京で式をあげるもんだと思っていた。ついでというように、純也が結婚を機に、地元に帰るということも、つい最近知ったのだった。それを口実にしたらずるい気がしたんだと、純也は細い声で言った。


 友人にも久しぶりに会った。来ないつもりだったと言ったら、お前が一番仲良かったんだから来ないほうがおかしいだろと笑われた。

 式は滞りなく進んで呆気なく出番が近づく。歌を歌うなんてことがなければ、他のみんなと一緒になって、畏まった顔の純也を笑っただろう。それにもっと気楽に感傷にでも浸れたかもしれない。式が終われば東京に帰り、荷造りをして、みんなの元に純也は戻る。そしたら週末には酒を飲んで、懐かしい想い出話をするんだろう。家族の話をして、将来の話をするんだろう。俺には遠い場所の話。

 田舎の式場の音響にしてはだいぶまともな機材で、披露宴会場は広くて天井が高い。リハーサルでギターを鳴らしてみたら、天然のリバーブがかかったように遠くまで音が響いていた。なんだか全部遠くて、自分の居場所がどこにあるのかわからなくなった。知っている顔も知らない顔に見えた。お前、歌うの?同級生がいう。うん。それだけ答えた。頑張れよ、と何人かがいう。うん。それだけを返した。

 名前を呼ばれ、拍手を背にマイクに向かう。一礼をしてセミアコを持ち、パイプ椅子に座った。椅子の角度を調節し、マイクを口元に合わせる。俺が初めて自分の金で買ったセミアコースティックギターはだいぶ古びてしまった。でも、古くなっても捨てられなかった。ずっと諦められないように、捨てることも出来なかった。純也と上京して初めて一緒に行ったお茶の水の楽器屋で、一目惚れしたギターだった。純也もそれに気づいて妙な顔をする。隣に座るさやかさんは穏やかな笑みを浮かべていた。ここにいる大勢の人の中で、純也とさやかさんと俺だけが、違う何かを共有しているようだった。



 純也さん、さやかさん、本当におめでとうございます。純也とは、同じバンドを組んでいました。高校時代から純也はとてもいいやつで、俺と一緒に上京して、一緒にバンドを組んでくれました。感謝してもしきれません。どうか幸せな家庭を築いてください。一曲だけ歌います。

 拍手が鳴り響き、みんながスマートフォンを持った。いくつもの小さなカメラが俺に向けられる。新宿の路上を思い出した。まさかこんな形で、スマホを向けられると思っていなかった。あの四人組も、こんな景色を見ていたのか。よく見えるんだな、真剣なみんなの顔が。

 

 ギターの音が会場中に響き、俺の指が次の弦を捉える。あんなに躊躇していたのにいつもより美しく響くギターの音が、俺のしみったれた想いに沁みて行く。

 俺にはこれしかないから。だから何も考えずに必死で歌にした。二度と聴かないと思っていたバンドの音源を何度も聴いて、新しい曲を作った。何年も使っていないスーツを引っ張り出してここまできた。走馬灯って死ぬときに見るもんじゃなかったかな。弾けば弾くほど忘れていたたくさんのことを思い出していた。

 怖かった。本当に怖かったんだ。何も成していない俺が歌うことが。

 誰も同じ場所を歩いてはくれない。隣にもいてくれない。俺だけがずっと同じ場所で足踏みをしているように感じていた。置いていかれることが怖かった。進めないことが怖かった。気づいていたのに認められなかった。こんなことにならなければ気づけない自分に笑えた。笑いながら涙が溢れた。自分を認めてあげたかった。好き放題生きているんだと思っていた。でもそれは認めていたわけではなかったんだ。


 ガラス張りの会場からは粉雪が見える。久しぶりに見た雪は会場の周りに立つオレンジの街灯で、ちらちらと光っていた。会場は暖かいのに指先はやけに冷たいのに、身体の中だけが熱かった。とりあえず今はいい。お前に届けば。流行らなくても、思うようにギターが鳴らなくても。

 

 でもな、純也。お前ふざけんな、ちくしょうが。

 こんな熱を思い出させやがって。またひとのせい?いいだろう、お前のせいにさせてくれよ。ほら、また辞められなくなっただろ、諦められなくなっただろうが。それに、おい、今日の主役のくせに、なんて顔してんだよ。晴れの日にするような顔じゃないだろ。もう二度とお前のためになんて歌うか。これっきりだ、おい、一度きりだぞ。だからお前、ちゃんと聴け、最後まで。

 喉の奥がぎゅうっと締め付けられる。それでも声を出して歌う。こんな情けない顔で歌うのももう最後だ。これ以上に照れ臭くて惨めなことなんて、きっとない。だったらまだ俺は歌える。歌ってやるよ。もうこれ以上歌えないと、心の底から思うまで。

 

 さやかさん、ありがとう。これからも純也のこと、お願いします。さやかさんはよく知ってると思うけど、言わせてください。バカでまっすぐで、誰よりも優しくてお人好しで、他人がどう思おうと関係なくて、誰よりも愛情深くて、こんな大事な日に、恥ずかしげもなく、涙でぐしゃぐしゃにしている純也のことを。

 さやかさん、どうか、よろしく。末長く、お幸せに。

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