それじゃ、また来週 ー蠍座のオンナたち
買ったばかりの洋服に初めて腕を通す時の感覚は、自分が開かれる感覚とよく似ている。自分の身体に入り込まれるあの瞬間。
お店の洋服を試着する時は、マネキンや、誰かの身体を通った場合が多いから特に何も思わない。流石に試着室がいくらプライベートな空間だからといって、常にそんなことを考えているわけではない。
自分の身体のラインに合うかどうか、心地よいかどうか、そういうことをちゃんと確かめて買うのに、在庫から出してもらった新品が身体を通ると、強烈な違和感とか、逆にこのままもう抜け出したくないと思ってその場で動けなくなってしまう。
不思議で仕方がない。人類が繊維に身を包まれるようになってから、もういくつもの時代が過ぎてきたというのに。たかが洋服だという人もいるだろう。ただ私にとって衣類というものは、もう私そのものなのだ。
この季節は中途半端だ。朝と昼と夜の距離はとても遠く一定ではない。今日は羽織は必要だろうか。この時期に天気予報を見逃すと痛い目を見る。そこらへんで売っているものを急に身につけることには抵抗がある。ちょっと物足りないからって簡単に手を出すことは出来ないのだ。だから家を出るその時に完璧でありたい。
「また今日も一段と」
自分の席に座ってすぐ、隣に座る鈴が声をかけてきた。
「おはよ」
「おはよう」
今日の鈴の指はガラスフレンチで彩られている。
「鈴、綺麗」
「ありがとう」
これが私と鈴が話すようになってから、毎日のようにかわす朝の挨拶である。
「昨日行ってきたの」
「そう、ガラスフレンチ初めてだったけど、今回はちゃんと馴染んでる気がする」
そう鈴は言うけれど、きっと明日には今日とは全く別のネイルが鈴の細い指に施されているはずだ。
「あさひ、そのカーデ見たことない」
「うん、この前の休みに買ったばっかりなの」
「よく似合ってるよ。今日はちゃんと入ったの」
「うん、今日は大丈夫」
「続くといいね」
「お互いね」
クスッと鈴が笑う。その微笑みをきっかけに私たちは話すのを止めた。
私たちの職場には数人しかいない。仲良くなったのはつい最近だ。彼女がいう、
『また今日も一段と』と言うのは私の服装に対してだ。
初対面の人が私に抱く印象はさまざまだ。上品だねと言う人もいれば、頭が悪そうと思う人もいる。少女っぽい言う人もいれば、外資系でしょ、とか職業も見当違いなことを言う人もいる。
私たちは服装自由の無法地帯の職場で働いている。外部の人間で私たちの会社に出入りする人は宅配業者くらいしかいない。雑居ビルの一室に私たちの職場はある。大きく言えばマーケティングのうちに入るのかも知れないのだけれど、いまいち働いている私たちにもカテゴライズが難しい。一番の特徴は、摩擦もなければ干渉もない。自分の仕事をこなしていれば、文句も言われない。そんな職場だ。多分ここで働く人々はみな、それぞれ世間からのはみ出しものなんだと思う。
「あさひ、今日いける?」
「うん、大丈夫」
私たちは約束をしない。休みの日に遊んだりもしない。お互いの休日も、何をしているのかなんて知らない。ただ毎週金曜日の夜はいつも揃って店に寄る。約束しているわけではないから、多分行かないと言っても、鈴は気にしないだろう。私もそれは同じだ。
今週も一度も残業はなかった。うちの職場のみんなが優秀だからなのか、それとも仕事がないのかなんとも言えないところだけど、みんなすぐに職場を出ていく。それでもなんだか冷たい空気がないところもこの世の中ではかなり不思議な方だと思う。多分ある意味、私たちのような二人には最適の場所だろう。
「いらっしゃい」
地下へ続く階段を降りると、その店はある。
単なるバーだけど、毎週金曜日は様子が変わる。いつものお客。顔見知り。
せっかくの金曜日で普通に営業をすれば売り上げが出るだろうにと思うのだけど、ここにきたから私は鈴と会えたのだ。正しくは「親しく」なった。
「今日もいい感じね」
マスターはだいぶ掴めない人だと思う。多分私がそんなことを言ったら、あんたには言われたくないわと、整った顔を歪めるだろう。マスターが男だろうと、オンナだろうと、ゲイだろうと、バイだろうとどれでもいい。どれが本当かわからないけど、マスターはマスターなのだ。それほどマスターはマスター然としている。
「奥の部屋借りるよ」
常連のペアがマスターに声をかけると、どっかのキャラクターのキーホルダーがついた鍵をマスターが渡した。
「さっちゃん、最近仲良さそうでよかったよね」
鈴がすでに頼んだらしいカクテルを傾けながらいう。
「うん、幸せそう」
「そうね」
さっちゃんはさっきのペアの片割れだ。人懐っこい犬みたいな顔をしていて、とっても素直な人だ。この店の片隅でよく喧嘩したり笑ったり泣いたりしてはマスターにうるさいと怒られている。
「それにしても、あんたたち。いつの間にそんな仲良しになったの」
取り止めなのない話をぽつぽつとしながらお酒を飲んでいるとマスターが言った。
「だって同じ会社だもの」
「え?そうなの?はぁ・・・世間て狭くてやんなるわね」
「ふふ」
鈴は、いつもクスクスという表現がぴったりの笑い方をする。そんな笑い方をする人が本当にいるんだ。ドラマや漫画だけじゃなかったんだなと思っていた。鈴のクスクスという笑い方は鈴にとっても合っている。口紅は今日も真っ赤で、お酒に濡れてツヤツヤとしていた。
「でも、金曜にあーちゃんが来るようになって、初めてすーちゃんに会った時なんて全然驚いてなかったじゃない。普通気まずくならないの。同僚で同種なんてトラブルの匂いしかしないじゃない」
心配そうにいうけれど、顔が笑っている。マスターは時々なんだか周りくどい。
「同僚だけど、同種とは違うんじゃない」
「こんなとこ来といてよくいうわ」
「あーちゃんを引き摺り込んだのはマスターのくせに」
「いやね、引き摺り込んだなんて嫌な言い方」
このバーを見つけてから数ヶ月が過ぎているなんて信じられない。薄暗い階段の一段一段にアルコールランプが点っていた。インターネットにも載ってないお店。静かに静かに時間を味わうことができそうで、なんの躊躇いもなく店に降りていた。
店に何度も通う中で、マスターと言葉を交わすようになってしばらくして、金曜に誘われたのだった。それまで定休日が金曜だなんて変な店だと思っていたから、流石に少しだけ驚いた。
「だって、洋服で欲情するなんて、面白い子だと思ったもの」
私はなんでそんな話をしたのだろうとちょっと後悔する。金曜に来れるようになったのは嬉しいけれど、いつもいつもマスターがその話をするからだ。
「あ、ごめんね、あーちゃん」
全然ごめんなんて思ってないくせに。
「あんまり揶揄わないでマスター。あーちゃん怒るよ」
「・・・怒らないよ、すー」
あまりにも説得力がなかったのか、鈴はクスクスと、マスターはにやにやと笑った。
私はあまり率先して話さないので、いつも二人の話を聞いている。この二人は外の世界から見たら、完璧なカップルに見えるだろう。マスターも鈴も綺麗だ。鈴の指先が照明に照らされて光る。ガラスフレンチのネイルを私は気に入った。すぐ別のネイルに変わるだろうけどもしかしたら、今回はもう少し長く見られるかも知れない。鈴がたびたび自分の爪を撫でている。
しばらく話を聞いているとさっちゃんが戻ってきた。ペッタリとペアに身体を押し付けて、ニコニコしている。さっちゃんが笑顔だと私はなんだか嬉しい。
「あーすー次入る?」
「あら、聞き捨てならないじゃない。やっぱりそうなのぉ?」
「「そんなんじゃないから」」
私と鈴の言葉が重なった。なんの感情も見えない声で。
「やだ、そんなに声揃えちゃって」
「揶揄わないの、あーちゃん怒るよ」
さっきとおんなじことを鈴がいう。私は何も言わなかった。
「行こう、あーちゃん」
鈴の頬がほんのりと赤くなっている。
「あら、おかえり?じゃあまた今度ね」
マスターのこういうところが私たちは好きなのだ。本当に立ち入ってほしくないところには絶対に入ってこない。やっぱりマスターだなって思う。
終電がもう少しで終わる。
ただ私たちは駅と反対へ歩いていく。私たち二人は黙って歩く。必要最低限の言葉すら交わさないようにしているみたいだ。何かを尋ねることもない。帰ろうか、とも、どこにいこうか、とも。
夜が少しずつ冬へ向かって、深く冷たくなっていく。お酒で温まった体も少し歩けば冷めていきそうな夜だ。どちらともなく手に触れる。今日ずっと見ていたガラスフレンチは思ったよりも冷たかった。
「寒い、急に寒くなったね、あさひ。お風呂入ろう」
「うん、流石に寒い。」
ホテルに入ると私たちは人が変わったようによく喋る。はしゃいだりとかそう言う感じじゃないけど、よく喋る。独り言を二人で喋ってるのかと思うくらいなんでも喋る。思ったことを全部口にする。喋らなかったら壊れてしまうおもちゃみたいに。
「あ、今日の入浴剤初めて見るやつ」
「さっちゃん可愛かったなぁ、すっごく幸せな気持ちになった」
「入浴剤入れるの」
「さっちゃんはねー、さちこって言うんだ本当はね」
「かわいいね、さっちゃん」
「先取りしないで、鈴」
「あさひが聞かないからでしょう」
クスクスと鈴が笑った。
「あさひ」
「何、鈴」
「あーちゃん」
「すーちゃん」
「やっぱりあーちゃんなんて鈴に似合わないね」
「うん、私もそう思う」
「あーちゃんっていうときの鈴、ちょっと間抜け」
「あさひだって舌ったらずじゃん」
鈴が私の口に触れる。私は口を少し開けて舌を出す。その舌を鈴のガラスフレンチの指がそっと摘んだ。
シーツの中はとっても暖かい。どんな暖房よりも暖かい気がする。私たちの体温が熱いくらいだった。
鈴が私の舌を真剣に見つめている。私は鈴の真剣な目を見ている。カラコンも入れたことがないという鈴の目は、比較的色素の薄い黒色だ。茶色がかっているというよりは色素の薄さが目立つ黒。メイクを落とした鈴の目はほんのちょっと幼く見える。
何かに納得したように鈴は私の舌から指を離した。ほんの少しの音量で有線が流れている。懐かしい曲だった。タイトルはなんだったけな。思い出せない。
頬、髪、耳、鼻、口、首、腕、背骨、肋骨、肋、腰、太もも、ふくらはぎ、手首、指先、血管、肌、ありとあらゆる私たちの身体のパーツ。
世の中の大半が持っているそれらはなぜにこんなにも違うのだろう。
爪の先でこの世の全てと自分自身を探ろうとしている鈴。
纏う洋服でこの世の全てと自分自身に触れようとしている私。
マスターが同種だと言っていたけれど、全然違う。私たちは同じような危うさとともに生きているけれど、全く違う存在だから。
鈴が私を探る。私が鈴を探るたび、こんなにも違うものだと思い知る。それは悲しさではなく愛しさだ。私たちはただ単純に違うものを愛しているのだ。人間としての作りだとか、その人の性質だとか。
私たちは同じようで同じじゃない。
二人で一つなんてことでもない。
私たちは、私とあなたでそれ以上も以下もない。
でも瞬間瞬間に、重なる瞬間もあったりする。
「世の中ももしかしたら、本当は全部一つなのかも知れないね」
そんな風に、鈴が以前言っていた。でもその時鈴は
「一つだったらつまらないけど」
とも言った。
音楽はいつの間にか夜の曲に変わっていた。意味のわからないフランス語が脳を揺さぶっていく。同じものを身体に持っているというのに全くの別の体と思考。それを確かめるように、研究するように、愛おしむように、私たちは互いの全てに触れていく。
「あさひ」
「何、鈴」
「あたしたちだってわからないよね、なんでこんな風に生きてるのか」
鈴が自分の指先を撫でている。
「うん、わからない」
「でも、わからないのがいいのにね」
「そう、マスターもまだまだだよね」
「でもちょっとだけ、ママに申し訳ないわ」
「どっちのママ?私?鈴?」
「どっちも」
クスクスと鈴が笑う。真似してクスクスと私も笑う。
これっぽっちの罪悪感もなさそうに。
「鈴、タバコ」
「どうぞ」
鈴が指で挟んだタバコを深く吸い込んで、私に口付ける。
鈴が吸ったタバコの煙が、隙間なく私の体に入り込んでいく。深く吸い込んで、細くゆっくり吐き出した。
「鈴、タバコ美味しいと思う?」
「うん、美味しいよ」
「そう、私はやっぱり美味しくない」
「だからいつもやめなよって言ってるのに」
タバコはまずい。でも鈴が吸っているといい匂いがして、とても美味しそうに見えるのだ。今日は少し美味しいかも知れないといつも試してみるのだが、なかなか美味しくはなってくれない。でももしかしたら毎週毎週鈴の煙を吸い込んでいたら、私の細胞一つ一つが変わっていく気がするのだ。
「ねぇ、私たちやっぱりぜんぜん違うよね」
「うん、あさひとあたしは全然違う。面白いね」
鈴がいたずらをするみたいにふたたびシーツに入り込む。シーツの中の鈴は会社でもバーでも見せない子供みたいな顔をする。綺麗な鈴。
鈴の膝の裏をそっと撫でながら、追いかけるように私もシーツに潜り込んだ。
朝が来る前に私たちは、ほんの少しだけ眠って別々の家に帰る。
外に出た私たちは、また静かに歩くだろう。少しでも口を開けば、今日見つけたばかりの私たちが、簡単に溢れ出してしまうから。
寒い朝に身体を少し縮ませながら駅まで歩く。反対の電車のホームに行く前に一言だけ言葉をかわして別れるだろう。
言葉は私たちの間ではあまり力を持たない。必要な時に、私たちの時間だけに多くの言葉があればいい。
「それじゃ、また来週」
「月曜日、会社で」
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