灰色の僕と桜色のスカートと白い杖

セツナ

灰色の僕と桜色のスカートと白い杖


 誰にとってもかけがえの無い存在というのは、必ずいると思う。

 それは恋人かもしれないし、友人かもしれないし、もしかしたら飼っているペットなのかもしれない。

 きっとどんな人間にも居るであろう大切な存在。


 けれど、僕にはそういう人は一人もいない。

 自分だけが特別だと思っているわけではない。

 でも、居ないのだ。それは僕の心がとても貧しいからだと思う。

 僕が他人を大切に思う事が出来ないから、だから誰も特別に感じないし、きっと僕も特別に思われてはいないだろう。


 僕の人生が終わるとき、いったい僕に何が残るのだろうか。



 今日も会社へ向かう。

 余裕をもって会社に着けるように、いつも通り7時半に家を出る。

 いつも通り、予定通り、何の変哲もない僕の人生だ。


 親の金で大学を出て、すぐに就職した会社。

 親とは不仲とは言わないが、仲がいいわけでもない。

 冷え切った関係、とまではいかないにしろある程度距離を取った関係だ。

 だから就職してすぐに一人暮らしを始めた。

 これ以上、親に恩を売るのは嫌だったからだ。

 冷たい人間だと思われるかもしれない。けれどそれだって人生だ。

 人は日和見ひよりみなのだ。自分の都合の良いように、不利益にならないように。そういう風に生きていく方が人間らしいじゃないか。


 最寄駅に着き、会社へ向かう電車のホームに立つ。7時45分。時計が指し示すいつも通りの時間に心が落ち着く。

 しかしいつもと違う出来事が僕の前にあった。

 そこにはふらふらと歩く女性の姿。

 何かを探すように手を宙で動かしながら、恐る恐ると僕の前を歩いている。

 しかし、そこはホームの端。

 一歩でも踏み外せば、線路に落下してしまう。

 内心ヒヤヒヤしながらその様子を見ていると、彼女は足を踏み外し線路側に身体が傾く。

 不安的中。

 いつも通りならもうすぐ電車がホームにやってくる頃だ。

 落ちてしまったら、きっと、助からない。

 脳内で色んな考えが行き交う中、僕は彼女に手を伸ばしていた。理屈ではなく本能だった。

 ――助けなければ。

 何が起こったか分かっていないような彼女は、一瞬の間を置いて顔を硬らせた。

 先程まで心細そうに伸ばされていた腕はピンと伸び、枝のように硬直していた。

 その腕をぐっと掴み、体重をかけて思い切り後ろに倒れる。

 思い切り尻もちを着いた下半身は思ったほど痛くなく、倒れてから数瞬置いて、ドサッという音が聞こえた気がした。

 それくらい、あっという間の出来事だった。

 彼女を抱き抱えるようにして倒れ込んだ僕の前を電車が通り過ぎ、そして停車する。

 驚いた表情を浮かべて僕らを見ていた人たちは、電車が着くなり先程までと同じような顔をして電車へと乗り込んでいく。

 あぁきっと、今までの僕でも同じようなことをするだろう。

 いつも通りは気が楽だ。安心する。

 そんな僕の『いつも通り』を変えた女性は、僕の腕の中で震え続けていた。


「あの」


 声をかけると彼女は、一瞬身体を硬直させ、こちらを見上げる。

 しかし、その瞳の焦点は僕を捉えていない。


「あっ、す、すみませ、ん……」


 慌てて僕から離れようとする彼女だったがその手を慌てて引く。


「待って! 慌てないでください、また落ちます」


 声をかけながら引き止めると、彼女は再び身体を硬くした。

 とりあえず、と僕の方からゆっくり身体を離し立ち上がる。そして手で支えながら彼女の身体を起こす。

 乗るはずだった電車はとっくのとうに出てしまっていた。


「座りませんか」


 近くのベンチを指差してから、しまった、と思い付け足す。


「近くにベンチがあるんです」


 彼女は驚いた表情を浮かべ、そしてニコっと笑った。


「ありがとうございます」


 そして僕は彼女の手を引きながら、ゆっくりとした歩幅でベンチへと向かう。

 ベンチの前に着くと「失礼します」と言って彼女の手を掴み、手すりに持っていく。

 彼女はそこに手を置き確かめるような素振りを見せてから、ベンチにゆっくりと腰かけた。

 それを確認してから僕もその隣の席へ腰掛ける。

 あぁ、これは会社遅刻だな。いつ電話しようかな。とボーッとした頭で考える。

 そんな呑気なことを考えている場合ではないのかもしれないが、不思議と気持ちは晴れ渡っていた。


「あの」


 隣の彼女が僕の方へ顔を向け、口を開いた。

 その目は変わらず僕の顔とは見当違いな方を向いている。


「助けていただいてありがとうございました」


 言ってペコリと頭を下げる。


「なんとお礼をしていいか……」


 申し訳なさそうに頭を下げる彼女。

 僕は彼女へと手を振って見せる。


「いいんですよ、あなたが無事で何よりでした」


 いつも通り、を狂わされたのに、それは心からの言葉だった。

 彼女は本日何度目か分からない驚いた表情を浮かべる。


「本当に……ありがとうございます」


 先程まで強張っていた顔がへにゃっと柔らかく緩む。

 その顔に不意に胸が熱くなり、慌てて顔を逸らす。

 そんな僕の様子に気付かない彼女は、手元を見つめその手をぎゅっと握った。


「私は目が見えないんです」


 気付いていた。彼女が僕の前を歩いていた時からずっと。

 酷い話だが、普段の僕だったら見て見ぬ振りをする存在だ。


「今日は修理に出していた白杖を取りに行く所でした。一人で行けるなんて、自惚うぬぼれてました……」


固く握りしめられる手のひら。彼女はどれだけ生きづらい毎日を送っているのだろう。

 一人で思うように動けないというのは、僕には考えられない事だった。


「けれど、あなたのような人に助けてもらえて良かったです」


 言って彼女は宙で手を動かす。

 とっさに手を差し出した。

 差し出した手を掴んだ彼女はしっかりと僕の手を握りしめ、真剣な顔をしていった。


「ありがとうございました」


 その手は思ったよりも冷たくて。

けれど触れた部分から、徐々に、少しずつ、僕の身体が熱くなっていく感じがした。


「あ、いえ……」


 こういう時は何と言うのが正解なのだろうか。

 言葉を探して、まるで宙に紛れた言葉を探すかのようにパクパクと口を開いたり閉じたりする。


 上手い言葉も見つけられないまま、ホームに電車到着のアナウンスが鳴り響く。


『2番線に~各駅停車が参ります。黄色い線から離れてお待ちください~』


そのアナウンスが告げる行先は、僕の職場とは反対方向の地名だ。


「あ、私こちらの電車に乗ります」


 名前も知らない彼女はすくっと立ち上がる。

 そして僕に「ありがとうございました」と頭を下げた。


 とっさに「大丈夫ですか、一人で」と言おうとして飲み込む。

 一人になりたくないのは僕の方だった。

 飲み干した青い言葉の代わりに、口から飛び出たのは――


「また、会えますか」


 ――赤く淡く、あったかい色の熱を帯びた言葉だった。

 彼女は呆気にとられた顔をしたが、すぐに顔を緩ませた。


「えぇ、ぜひ」


 その言葉と同時に、ホームに緩やかな風と共に電車が滑り込んできた。

 彼女はゆっくりとした、けれど確かな足取りで、その電車に足を踏み入れる。

 彼女に僕の姿は見えていないかもしれないけれど、僕はその電車の扉が閉まり、その最後尾が見えなくなるまでずっと、ずっと見つめていた。

 電車が遠くへ消えてしまってようやく、電話を取り出した。


「もしもし。はい、僕です。すみません、少し遅れそうです、はい――」


 気前よく許してくれた上司の声と、頬を撫でる春の風を浴びて。線路沿いに咲く桜越しに見えた空は、眩しかった。



 特別な存在なんて、意識して得るものではなかったのだ。

 その人にとっての特別と、僕にとっての特別は違う。

 ただ、通勤電車のホームで一緒になった彼女。

 傍から見れば彼女の命を僕が助けたのだろう。

 だけど、きっと救われたのは僕も同じだ。

 灰色で、白黒で、全てが無意味なものになっていた僕の人生に、色を取り戻してくれた彼女の存在は僕にとって『価値のあるもの』だと思う。

 今まで浮かべたことのない、穏やかな表情の僕の頭上を、彼女のスカートと同じ色の桃色の花びらが舞っていた。

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灰色の僕と桜色のスカートと白い杖 セツナ @setuna30

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