第47話 窮地
「……」
「……」
一瞬、無言の時間が流れる。
寮母さんの方は、私という人間が部屋の中にいることを予想していない驚き。そして私は、こんなにも早く寮母さんが戻ってきたことに対する驚き。
本当に驚いたとき、人間というのは悲鳴すら出ないものだ。
息を大きく吸い込み、声帯を震わせ、思い切り吐き出す。それは、思いのほか重労働である。
「あなた……」
「……」
私の顔をまず確認して、それから手元――黒い革張りの帳簿が私の手に握られているのを確認して、寮母さんの眉根が激しく寄る。
完全に私は、泥棒だ。寮母さんがいない隙を狙って、こんな風に忍び込み、不正の証拠を手にして今まさに出ようとしているのだから。
ベアトリーチェさん、あともう少しだけ、寮母さんを引き留めておいてくれれば――。
「なるほどね」
そして寮母さんが、全てを理解したとばかりに大きく溜息を吐いた。
私がその奥の扉から逃げられないようにと、一歩退いて扉に身を寄せる。これで、私が逃げるには寮母さんの体を前にやって、扉を開ける――そんな手順を踏まなければならなくなってしまった。
あと逃げ道は、後ろの窓ガラス。体ごとぶつかれば破って出られるかもしれないけれど、間違いなく騒ぎになってしまうし私の罪状が一つ増えてしまう。
「私が不在の間に忍び入って、それを持って出ていって、どうするつもりだったのかしら? メイウェザーさん」
「……」
「子爵家の娘は、まともな教育もなされていないのね。人の家に勝手に入って、物を持ち出して出て行くことは、犯罪よ」
「……」
そんなこと、分かっている。
どれだけ、子爵家のことを馬鹿にしたいのだろう。この人が主導で、私たち子爵家の娘は倉庫で食事を摂ることを強制されたのだ。
でも、私は侵入者。
そして、侵入して盗みを働いたことを、既に目撃されている。
つまり、私の人生は。
詰み、だ――。
「もしかして、アングラード伯爵家の娘も、あなたの共犯だったのかしら?」
「えっ……!」
「緊急事態だから早く来てくれ、って言われて手を引かれて連れて行かれたけど、結局特に何もなかったのよね。あの娘は、「確かにここで、人が倒れていたのですが……」って言っていたけど、誰の姿もなかったわ」
「……」
ベアトリーチェさん、そんな手段だったんだ。
ありもしない事件をでっち上げるのは、さすがに難しかったということだろう。
だから、こんなにも早く寮母さんが戻ってきた。
「あの娘は、「確かにここで倒れていたんだ! 寮母さんも探すのを手伝ってくれ!」って言ってきたわ。それで私は頷いたの」
「……」
「でも、そのときに思い出したのよ。私、部屋の鍵を掛けていなかったの。だから、鍵をかけてからまた来るわ、って言ったのよ」
「……」
「あのときの、あの娘の狼狽えよう……不思議だったけれど、あなたの共犯だったというなら理解できるわ」
「……」
ベアトリーチェさんも、頑張ってくれたのだろう。
頑張って、寮母さんを引き離そうとしてくれたのだ。
つまり、運が悪かった。
私たちの想定以上に、寮母さんの危機意識が高かった――それだけなのだ。
「ただ、気になるわね。金目のものではなく、どうしてそんな帳簿を持って出ていこうとしたのかしら? その帳簿が最初から目的だったのかしら?」
「……」
「だったらあなた、その帳簿で何をするつもりだったのかしらね……お答えなさい」
「……」
寮母さんの質問に対して、答えることができない。
私は、この証拠を突きつけて、寮母さんを脅すつもりだったのだ。この証拠を提出されたくなければ、私に金を払え、と。
奪い返されないように精巧な偽物を作るつもりだったし、脅しの際にはテヤンディの家の力を借りるつもりだった。交渉の席に、寮母さんを座らせるために。
だけれど、この状況は。
私が私でしかなく、容易に証拠の品を奪い返される、この状況では。
私には、寮母さんを脅すことなど、できない――。
「答えないと言うのね?」
「……」
「だったら、仕方ないわね」
くるり、と寮母さんが踵を返して、扉を僅かに開く。
そして、その廊下の先へ向けて、叫んだ。
「誰か! 誰かいるのなら来なさい!」
僅かに開いた扉。
だけれど、それ以上開くためには寮母さんを倒さなければならない。
寮母さんは、女性だ。だけれど、私より身長は高いし、骨格もがっしりしている。私でなくベアトリーチェさんが中にいたのなら、容易に倒せたのだろうけれど、今ここにいるのは私だけだ。
私だけでどうにか、この場を切り抜ける方法は――。
誰かが来れば、私の人生は終わる。
誰かがやってきて、寮母さんの指示に従って、警備の人間を呼ばせれば。
私は、そこで捕まる。そして警察のお世話になるだろう。
退学で済ませるような、そんな真似はしてくれない。きっと。
誰も、誰も来ないでくれ。
私が、どうにかこの場を切り抜ける方法を思いつくまで。
だけれど、そんな私の願いも空しく。
誰かの、声がした。
「へぇ、お呼びですかい? 寮母さん」
だけれど、それは私のよく知っている声。
まるで全てを読んでいたみたいに、何故ここにいるのか。
顔を上げた私の視界――僅かに開いた扉の向こうで、悪魔のように微笑む。
テヤンディが、そこにいた。
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