第43話 肉を切らせて意を奪う

 赤黒い血に塗れた剣を順手に持ち、ザラが一切の躊躇なくハイラムに斬りかかった。

 ハイラムはヒビの入った投矢器でそれを受ける――と見せかけて、接触すると同時に後退し、ザラの体勢を崩させる。

 その狙いを察していたように、左右にいた善性種が一斉にザラに飛びかかった。

 そこからは、文字通りの乱闘だった。


「ザラ!? 彼らはサイルじゃないよ!」


 瘴気と土埃でもうもうとする向こうへ、エメインは何度も大声で呼びかける。だが、ザラはエメインを見る気配もない。


「何で……」


 突然の変貌に、エメインは少しも理解が追いつかなかった。

 あれでは、まるで追い詰められた手負いの獣だ。荒々しく、乱暴で無軌道で、深慮など毫もない。ただ、目の前に人がいるから突っ込んだというような、なりふり構わぬ反抗。


「ね、ねぇ、エメイン。ザラはなんでハイラムたちと戦うの? もしかして、まだ怒ってる?」


 隣のイーシュが、エメインの袖を引きながら心細げに問う。だが、エメインに答えられることなどなかった。


「いや、もう誤解は解けたはずだし、何よりハイラムは応援を呼んできてくれたんだから、怒る理由なんて……」


 言いながらも、エメインは今更に自信がなくなった。

 ザラがハイラムと敵対していたのは、強人種スクリロスに利用されていたイーシュを、ハイラムが守ろうとしたからだ。イーシュが強人種の思惑通りに動かないのなら、ザラが敵対する理由はないはずだ。


「ハイラム……!」

「ザラ! おい、ザラってば!」


 吹き飛ばされたハイラムを心配するイーシュとともに、エメインもまたがむしゃらに呼びかける。

 だが、やはり反応はない。


「せめて、ここから出られれば……」


 エメインは、眼前の不可視の結界を睨みつけながら歯噛みした。

 意を決して、結界内に溜まった瘴気によって壁があるように見えているそこに、慎重に指を伸ばしてみる。

 封鎌ズレパニを元に戻した今、第一結界プロートンの中に留まる理由はない。この結界が一方通行ならば、今すぐにでも駆け付けて止めるのに。


 ジュッ


「ッ」


 指先に火傷のような痛みが走り、思わず手を引っ込める。

 結界は小さく朱色に歪んでいる。やはり、出るにも入るにも、同じだけの痛みを味わわなければならないらしい。


(そりゃそうだよな)


 この結界の本来の目的は、万が一にも封鎌ズレパニが外された場合でも、灰界の強人種スクリロスを地上に出さないことだ。内側からはすんなり出られるなどという道理はない。


(どうしたら……)


 幾つもの方法や可能性を頭の中で考えてみるが、少しも良案が浮かばない。

 空間の神コーロスに祈ることで移動できる神法もあるが、基本は危地から脱するのが目的のものだ。法術や法具がなければ、任意の場所に出ることは出来ない。

 エメインは結界から出られないし、そもそも出られたとしてもザラを止められる自信がない。

 ザラは何故か聞く耳を持たないし、ハイラムたちに戦わないでと頼んでも、やはり受け入れられないだろう。

 吐くのを覚悟で攻撃神法を使ってみるという手もあるが、怪我を負わせるようなことはしたくない。それに動きを止めるだけでは、ハイラムたちが確実に意識を奪いにくるだろう。


(折角、サイルが動かないのに)


 酉鬼亥アグリオスの体は戦闘不能と思われるくらいの損傷だが、サイルは瘴気そのものだ。島の瘴気が晴れない限り、また新しい死体を操って脅威となる。

 そうなる前に、全員で協力して対策するべきなのに。


「あぁっ」


 風を操る善性種の攻撃を受け、ザラの体が血の筋を引いて吹き飛ぶ。そこに一人が矢を投げ込み、それを避けた瞬間を狙って別の投矢器が血だらけの側頭部を殴り飛ばした。


「がはッ」


 ドッとザラの体が地面に沈む。その一瞬で弛緩した体の隙をついて、ハイラムがザラの手から長剣を取り上げた。


「ハーッ、ハーッ……!」

「正気でないな」


 三人がかりで背中から押さえ付けられ動けないザラを見下しながら、ハイラムが吐き捨てる。手に持った長剣は、油断なくザラの喉に突き付けられている。

 その先の行動が嫌でも分かって、エメインは声を裏返して叫んでいた。


「ハ、ハイラム、待って!」

「無理だ、エメイン」


 エメインの声もずっと聞こえていたのだろう。ハイラムはザラから目を離すことなく即答した。


「ザラは、のれたちに牙を剥いた。本気で殺そうとしていた。しかも、これが初めてではない」

「でもっ、今ハイラムも、正気じゃないって」

「生かしておく理由はない」

「そんな……!」

「最初に言ったはずだ。己を愉しませる間は、生かしておくと」

「……ッ」


 必死に説得しようとするエメインの言葉をばっさりと遮って断言され、エメインは反論の声を失った。

 脳裏に、ハイラムに最初に会った時の言葉が蘇る。


『食わせてやるぞ? 己を愉しませている間はな』


 それは、エメインの甘さゆえに捕まった日、選択権はないと告げたハイラムが続けた言葉だった。

 飽きたら有意義に活用すると言っていたが、それは有害になっても同じだと言いたいのだろう。

 アハトであるハイラムの判断は、間違ってはいない。


「でも、でもザラは……!」


 身を賭して皆を守ったのに、と訴えようとした時、


「ねぇ、サイル、動いてない……?」

「え?」


 イーシュが、怪訝な声を上げた。サイルという単語に、エメインだけでなくハイラムもそちらに目線をやる。

 サイルは、ザラに斬られた状態のまま、地面に打ち捨てられている。その切り口からは確かに薄黒い瘴気が零れ続け、一見その肉体が動いているようにも見えるが。


「いや、あれは瘴気だよ。サイル自体が動いているわけじゃ……」


 言いながら、エメインは妙だと思った。

 肉体ではなく瘴気に意思の宿っているサイルなら、動かない肉体にいつまでも拘る理由はない。だが瘴気は酉鬼亥の肉体の周りを漂うばかりで、次の動きは見られない。


(何で……機を窺っているとか?)


 何の、と左右を見渡す。辺りに漂う瘴気に目を凝らせば、他と違って僅かに濃い箇所が、地面を這うように細く長く続いているのが見えた。

 ザラに向かって。


「……なんで……?」


 瘴気は、強人種にとっては力の源にもなり得る。負傷したザラが、無意識のうちに瘴気を取り込んで傷を治そうとしているとも考えられるが。


「そもそも」


 と、動かないサイルを警戒しながら、ハイラムが再び足下のザラに視線を戻す。


「ザラが正気かどうかなど関係なく、この者はサイルの器になり得る。となれば、やはり生かしておく理由はない」

「ちょっ、そんなの暴論だよ!」


 そんなことを言ったら、群れの善性種たちでもその可能性はあるはずだ。その筆頭がハイラムのはずなのに。


「そんなの、ザラが仲間じゃないから言うんだろっ?」


 ザラが自分たちと同じではないから。

 排除しても痛くも痒くもないから。

 同じ人として見ていないから。


「それじゃあ、何にも変わらないじゃないか!」


 危機が迫れば一番下を切り捨て、問題が起こればまず異物を排除する。

 そんなことを繰り返しても何の解決にもならないと、イーシュの文字通り身を削る訴えを目の当たりにしたなら、分かるはずなのに。


「……どうとでも言え」


 背を向けたハイラムは、こちらに向いていた三角耳すらも正面に戻して、そうとだけ言った。


「……ハイラムッ!」


 諦めないでほしい。そう願って名を呼ぶ。

 けれど握り締めた長剣は、ゆっくりとザラのうなじに沈み込み――


「いい加減目を覚ませよ、ザラッ!!」

「「「なッ!?」」」


 エメインの絶叫に、複数の呻き声が重なる。と思ったら、ザラを押さえていたはずの善性種が、見えない腕に薙ぎ払われたように後ろにぶっ飛んだ。


「えっ?」


 突然の変化に、すぐには理解が追いつかないかった。よく見れば、ザラに剣を突きつけていたハイラムもまた、数メートル後退した所で膝を付いている。

 何故、と土煙を上げるその中心に目を凝らす。薄暗い上に瘴気と土埃で視界は判然としないが、誰かが一人立っている、と気付いた時、



「ひとまず、感謝するよ。丁度良く痛めつけてくれたお陰で、容易に体を奪えた」



 ザラの声が、酷く流暢にそう語った。

 だがその声調はあまりに理性的で、余裕があり、いかにもザラらしくない。


「ザ、ザラ……?」


 手負いの獣のように荒ぶっていたのはもう終わったのかと、窺うように名を呼ぶ。

 風が吹き、土埃が浚われてやっと視界が晴れる。

 薄い瘴気の向こうにいたのは、やはりザラだった。ついに完全な姿を取り戻した灰紫色の角は美しく天を指し、三白眼の金の瞳は明確な意思を宿してエメインやハイラムたちを順に見渡している。

 そしてその口元は、緩やかな弧を描いていた。


「ザラ……じゃない?」


 ゾッとした。血の気が引いて鳥肌が立つ。

 ザラは、笑ったりしない。

 普段から感情を見せる方ではないし、あの性格なら、高揚感を感じてすら笑みを見せはしないだろう。

 それが、笑っている。


「お前は、誰だ……?」


 訊いてはならないと、本能が警鐘を鳴らしている。それでも、エメインの口は勝手にそう尋ねていた。

 全員が凝視する中で、ザラの体をした者は、ニィィ、と更に口端を持ち上げた。


「私は、灰界の王、サイルだ」


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