3-2話


「小茶! 早く、これを飲むのです!!」

 楊太儀の居室にやって来た英鈴が見たのは、取り乱した様子で陶製の碗に入った湯──おそらく薬湯を、ぐったりと床にした犬に飲ませようとしている楊太儀の姿だった。

 彼女の髪は乱れ、涼しげだった目元は真っ赤に泣きらしている。高い地位ときように根差していたはずの高貴さは鳴りを潜め、そこにいたのはただ、おろおろと慌てる女性だった。

 一方で小犬──小茶のほうは、どうやら、相当に具合が悪いようだ。

 絹で作られた枕の上に寝そべった小茶は、半開きの口から舌を出して荒く息を吐き、時折、苦しそうに小さくうなっている。しかし、主人に押しつけられている碗の中身をめとろうとはしない。わずかに鼻を動かして匂いをぐと、舌を口の中にしまってしまうのだ。

「小茶、飲まなければお前は……!」

 叫ぶ太儀の頰に涙が伝う。その様子を見て──

 ふいに、脳裏をぎる光景があった。かつての姿、決して忘れられはしない過去。


 ──椀を持ち、必死に叫ぶ自分。

 そして、目の前で苦しそうにあえいでいるのは──

けい……)


「太儀様!」

 つい思い出に浸りそうになるその前に、先ほどの宮女が傍らに進み出て声をあげた。

「恐れながら、董昭儀様をお連れいたしました」

「董昭儀を……!?」

 太儀はこちらの存在に気づいていなかったようだ。

 驚いたまなしでこちらを見やると、次に彼女の顔に浮かんだのは、強い警戒だった。

「あなたが一体、なんの用ですの? 関係ありませんわ、お引き取りになって!」

「太儀様、昭儀様のお力を借りましょう!」

 宮女は主人に呼びかけた。

「昭儀様は、薬の扱いにけた方です。お知恵を借りれば、小茶様もきっと……!」

「……あの」

 努めて落ち着いた声音で、英鈴は宮女のほうに尋ねた。

「あちらの小犬が小茶で……病を得たのに薬を飲まない。それで、合っていますか?」

「さようでございます」

こたえなくてよろしい!」

 まなじりを決し、楊太儀は宮女を制止する。けれども、きっと宮女は、英鈴の力を借りることこそがあるじのためだと思っているのだろう。主人の言葉を遮るように、彼女はきようしゆして言った。

「……幸い、日中に動物の病に詳しい医師の方に診ていただき、適した薬も調合していただきました。ですが、小茶様が煎じた湯を飲んでくださらないのです。飲んでいただこうとしている間に時が過ぎていき、だんだん弱ってゆかれるばかりで」

 なんとかしてもらおうと、医師やくすを呼び出してはいるが、何分、夜間とあって時間がかかっている。そもそも、男である彼らは後宮には立ち入れない。だから仮に来てくれたとしても、小茶を後宮の外に連れ出さなければならない。

 そして恐らく、その猶予もほぼ残されてはいない。宮女は、そう語った。

「そうですか……」

 あいづちを打ちながら、内心でつぶやく。

(これは──難しい状況ね)

 楊太儀はといえば、もはやこちらのやり取りには構ってなどいられないとばかりに、必死になって小茶に薬湯を飲ませようとしている。しかし、小茶は口を閉ざすばかりだ。

(飲みたくないと思っている相手に、薬を飲ませるのは大変なことだわ)

 何より相手は、きゆうかくの鋭い犬である。おそらく小茶は、薬に含まれる草木の匂いを敏感に嗅ぎ取ってしまっているからこそ、ああして飲むのを拒んでいるのだろう。

 だが飲まなければ、病は進行するばかりだ。

(あれだけ苦しそうにしているなら、きっとご飯も食べられないに違いない)

 そうすれば、さらに身体は弱っていく──なんとかしなければ。人間ではなく、犬に薬を飲ませる状況なんて考えたことがなかった。だがきっと、手立ては残されているはずだ。

(膠衣丸の時みたいに、薬に肉を巻いて飲ませる? いえ……今回は薬湯だから、散薬みたいには扱えない! 発想を変えなくちゃ)

 相手は犬なのだから、人間の時とは別の方法を採れるはずだ。例えば──

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