第三章 英鈴、一決を得ること

3-1話


「……駄目だ。やっぱり上手うまくいかない……」

 何度目かになるつぶやきを漏らすと、えいりんは、机の上に広げていた紙をぐしゃりとつぶし、後ろに投げた。振り返れば、部屋にはもう既にいくつもの紙の塊が投げ捨てられている。

(か、肩凝ってきちゃった……かつこんとうでも飲もうかな)

 こういう時、薬売りの娘でよかったと思う。高価な薬でもなければ、実家から簡単に取り寄せられるからだ。

 葛根湯は、文字通り湯でせんじて飲む葛根を主体とした薬で、身体を温める効能から、風邪のひき始めに飲むとよいと知られている。だが実際には、背中やうなじも温める効能から、頭痛や肩こりにも一定の効果があるのだ。

「ふう……」

 持ってきてある火鉢で湯を沸かし、葛根湯を一口飲んで、一息入れる。

 今は真夜中過ぎ。宮女たちは既に退出しているので、今、部屋には英鈴一人だけ。

 数日前にしゆしんじゆんしんるいの服用法の開発を命じられて以来、薬童の仕事をするために日に三度朱心の元に参じる以外は、ずっとこうして部屋にこもり、研究をしているのだ。

 といっても、まったく良案は浮かばない。

 朱心には今のところ、この前作ったこうがんを提供し、服用してもらっている。

 けれど苦い薬を甘い別のもので包むのではない方法で、服用しやすくするとなると──例えば薬を何かに混ぜるとか、そういう方法自体は考えられる。

 だが草木の中には、加熱すると効能が変化したり、まったく効果がなくなってしまったりするものもある。そして潤心涙も、そういったたぐいの材料を含んでいるのだ。だから例えば麦の生地に混ぜて蒸し、まんとうにして食べる、なんていう手段を採るのは不可能である。

(それに何かと混ぜるなら、当然飲み合わせが悪くならないようにする必要があるし……そもそも、一番厄介なのは、これが潤心涙だってことよね)

 先日朱心に説明した通り、潤心涙は健康な人間にとっては毒となる。

 服用法の開発をする時は、特に効果の強烈な草木のいくつかを抜いた調合をすれば、自分を実験台に味見することはできそうだ。

 けれど服用法を実際に完成させた暁には、できればこの強すぎる薬効自体もなんとかしたいと、英鈴は思っていた。

(陛下がこれを何に使うつもりなのかは知らないけれど……幼い子どもでも飲めるようにするというのなら、子どもが間違って多少口に含んでも、平気なものにしないと)

 そこまでできてこその、『不苦の良薬』だろう。とはいえその高い理想に見合った手段を見つけられないから、こうして悩んでいるのだが。

やくえん在処ありかも、全然わからないままだし……)

 このままじゃ、せっかくの夢も叶わずじまいになってしまう。

「はあ……」

 広い部屋に、自分のため息の音だけが聞こえた。外は時たまかすかにたかの鳴き声が響くだけで、まったく静かなものである。と──そう思っていたのだが。

(……あら?)

 葛根湯の入っていた器を机に置き、耳を澄ませる。

 気のせいだろうか? 遠くから、悲鳴のような声が聞こえてきた気が──?

「……ッ、……!」

 女性の甲高い叫び、そしてバタバタとした足音。

 叫びは遠くからこちらに届くだけだけれど、足音はだんだん近づいてくる。

 複数の足音は英鈴の部屋の前にまで辿たどり着き、止まり──そして、まるで戸惑うように部屋の扉の前でうろうろとしているようだった。

(……なんだろう。この感じ、えんさんとかじゃないよね。ということは……)

 外にいるのは宮女たちだ、間違いない。

 ──過日の、後宮追放騒ぎを思い出す。英鈴を追い出すために、またようたいたちが何かたくらんでいるのだろうか。警戒する間にも、足音はだんだん増えてきている。

(こんなあからさまなことをして、一体なんのつもりなの……!)

 立ち上がりざまに懐のしようさいの丸薬を取り出すと、鋭く誰何すいかの声をあげる。

「誰!? なんの用ですか!?」

『……!』

 扉の向こうにたたずんでいる影たちは、言葉に怯んだようだった。ざわざわと動揺したような声が聞こえた後、足音がぴたりと止み──やがて、恭しい拝礼と共に、扉が開かれる。

「と、とうしよう様……」

 現れたのは、やはり、幾人もの宮女たちだった。しかも、確か楊太儀に仕えている者だ。

 暗い表情の彼女らは、ただ英鈴の顔を見る時だけ、何か助けを求めるような目つきになる。

(なんだっていうの……?)

 状況はつかめないが声音は冷静に、英鈴は宮女たちのうちで一番年長そうな者に質問する。

「あの……こんな夜更けに、なんのご用でしょうか」

「お、恐れながら!」

 がばっ、と勢いよく彼女らは土下座の姿勢をとる。

「このような夜半に昭儀様のお手を煩わせ、まことに申し訳ございません! ですがどうか……どうか私どもの主君、楊太儀様をお救いください」

「よ、楊太儀様を?」

 やっぱり、事態を理解できない。

「……どういう、意味でしょう。太儀様が、私をお呼び出しなのですか?」

「いえ! ただ楊太儀様の御身に起きている事態を収められるのは、この後宮には董昭儀様をおいていらっしゃらないだろうと」

 宮女たちは平伏したまま、懸命な様子で訴えてくる。

(──本当に?)

 我ながら、疑い深いとは思う。でも先日あんな振る舞いをしてきたひんに仕える宮女たちだ、簡単に信用してしまえば危険なのはこちらである。少し考えた後、おもむろに答える。

「私にしかできないと言われても、なんのことか……」

「薬です!」

 もはや半泣きの状態で、宮女は面を上げて主張した。

「今この後宮で、董昭儀様より薬にお詳しい方はいらっしゃいません! どうかそのお力で、しようちや様を、どうか……!」

「小茶……?」

 危機に陥っているのは、どうやら、楊太儀本人ではないらしい。

(仕えている宮女とか? でも、そんな名前の人はいたかしら?)

 少し考えて、はっ、と思い当たる。

「もしかして!」

 次に英鈴が問いかけた言葉に、宮女たちは、激しくうなずくのだった。


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