第319話 ミネラルウォーター(前編)

 日傘の下、影の中。

塩飴はもう溶けてしまって、水を欲した。

するとミヤビ君はバッグからペットボトルを取り出した。

透明のそれはまだ開いていなくて、私は日傘を受け取る。

やっぱり背が高くて、傘の柄を少し高めに上げ持たなければならなかった。

ずっと持っていたら疲れそう──もう疲れた。

ミヤビ君の頭に黒いレースの部分が、ふぁさっ、と当たってしまった。


「ごめんなさい」


「いえ……身長は同じくらい?」


 姉さんの身長を聞くミヤビ君は、喉を鳴らしながらミネラルウォーターを飲む。


「うん」


「もっと高いと思ってた」


 はっ、と気づいた。

私も姉さんも中学の時とそう身長は変わらない。

けれど男の子のミヤビ君はずっと背が伸びたのだろう。

もしかしたら私よりも低かったのかもしれない、同じくらいだったのかもしれない。


 今はもう、私と比べるしかない。


「飲みます?」


 また、はっ、とした。

見ていたからだろうか、ミヤビ君は蓋を開けたままのペットボトルを渡してきたのだ。

日傘も取られてしまった。


「いいの?」


ぬるいですけれど」


 喉は乾いている。

温いのも別にいい。

それに対する疑問ではなくて──。


「──毒入りがよかったですか?」


「え?」


「ふっ、冗談です」


 驚いた。

まさか冗談とわかりにくい静かな笑いが出るなんて。


「……間接キスに抵抗があるのかと」


 少しばかりの意地悪返しのつもりだった。

喉を潤すミネラルウォーターは私の中に心地良く流れる。

そしてミヤビ君はこう言った。


「リョウちゃん先輩にちゅー出来るんで問題ないです」


「んっ!?」


 やばいわ、むせて鼻から出るかと思った。


「それにあんたとも」


 まだ言うか。


 むせ終えた私は口元を拭いながらミヤビ君を睨む。

ミヤビ君は平然とした顔でいた。


「……もう少し自分を大事にした方がいいと思うわ」


「それはあんたも」


「私は取り返しただけ。キスとは違う」


「じゃあ──今あんたにキスしたらリョウちゃん先輩どうするかなぁ」


 ミヤビ君は私の顎に指を添えた。


 よくよく見ればカジさんと似ている顔だ。

穏やかな雰囲気に鋭さをたくさん足したような目をしている。

荒れも何もない唇はにやけていた。


「……餓鬼がきね」


「……あ?」


「そんな事じゃ怯まないわ」


 


 男子から聞いたミヤビ君はこういう子じゃなかった。

むしろ好意を寄せている。


 すっ、と指が離された。

はぁ、とため息をつくミヤビ君はまた遠くを見ている。

遠くの日向を見ている。


「……何を見てるの?」


 私ではない。


「……クサカ君に、何を想ったの?」


 私ではなく、男子にそれ──キスをした事。

ただの嫌がらせで出来る事ではない。

それほどこの子の頭は弱くない。


「……忘れかけてたのが、見えた気がした」


 ミヤビ君は独白する。


「声も姿も、何も違う。性も違うのに、ただ、年上ってとこだけ。その数も違う」


 途切れ途切れの、沸く言葉。


「なのに……透けたみたいに、見えた気がした。懐かしいとかそういうんじゃなくて……同じ匂いの人、だなって」


 無味無臭の、見えない匂い。


「まだちょっとしか喋ってないし、笑ってない。けどなんか……なん、か」


 なんか。


「……似てないのに、似てる気がする」


 姉さんと、男子。

私の、好きな人達。

ミヤビ君の、好きな人達。


「そしたら……あんたがいた。いつも俺が想う人のそばにあんたがいる」


 ミヤビ君はペットボトルをべこっ、と握り締めた。


「ユウさんの話の中にも、リョウちゃん先輩の中にもあんたばっかりだ……


 幼い言葉が耳を伝う。


 私は俯くミヤビ君の前髪にそっと触れた。

掻き分けて、その目を見る。

綺麗な目は一度、ゆっくり閉じて開けられた。


「……ユウさんに会いたい」


「……私もよ」


 同じ。

同じ。


 私とミヤビ君は、それを閉じ込めていた。

心の奥の、底の空洞に。


 きっとこの感情は、こう言うだろう。


「──


 姉さんという人、ユウさんという人。


「……うん。しっくりきた」


 ミヤビ君の今までの感情はだった。

それは私にも残っている。

けれど、上書きでもない新しい感情は、少しだけ光に照らされたような、暖かさを感じた。


「……謝らないって言ったから謝りません」


「ええ、いらないわ。許すとも言ってないけれど」


「え?」


 私はミヤビ君に微笑む。


「どうぞ、私を憎みなさい。それで解決するなら受けて立つ。その代わり、私ともっとお喋りをしましょう」


 ミヤビ君の中にいる姉さんの話を聴きたい。

私の中にいる姉さんの話を伝えたい。


「……やっぱ、姉妹だ。変なとこ似てる、かも」


 そう言ったミヤビ君は少しだけ笑った気がした。

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