第257話 パポシュ・デ・アンジョ(前編)

 書道部の部活終了。

本当にやる気のある一年生達ばかりで参る──らない。

楽しかったというのが本音だ。

ほとんど経験のない子ばかりで、新しい事を見つけたみたいな顔で、一所懸命が伝わってきた。

字が上手くなりたい子、面白い字を書きたい子、理由は様々だ。


 その中で驚いたのは、私みたいな字が書きたい、というものだった。


 私は自分の字に絶対の自信があるわけではない。

けれど何かを感じてくれたわけで、これほど嬉しい事はない。


 廊下を歩きながら一つ背伸びをする。

ああ、肩も首もばきばきに強張っている。

少々力を入れ過ぎたか、もしくは知らぬ間の緊張で固まっていたか。


 肩に掛けたバッグから携帯電話を取り出して操作しながら廊下を歩く。

廊下はいい夕陽が射しこんでいて、ザ・放課後という雰囲気を作っていた。

空は夜を抵抗するみたいに赤混じりの橙色で、それを見ている私もきっとその色に染まっている事でしょう。


 携帯電話をタップしてライーンを見る。

片付けをする前に男子に連絡を入れたのだけれど、未だ既読になっていない。

まさか帰ってしまたのかしら、と少々頬が膨れたけれど、すっ、と戻した。

帰るとしても彼は何かしらライーンするだろう、という九割くらいの自信からだ。

それじゃなかったら何かに熱中している。

例えば本──いいえ、多分ゲームでしょう。

テスト中は控えてたみたいだし、と私は階段を上がる。


 実習棟二階から天文部がある三階へ、そしてまた廊下を歩く。

部活を終えて生徒が少なくなった校舎はとても静かだ。

私のゆっくりとした足音が緩く反響する。

つるつるの床は何だか寂しくて、一人じゃないのに一人ぼっちのような錯覚に陥りそう。

なんて、遠くのグラウンドからする運動部の声で目を覚ました。


 こんなにまだ音がするのにライーンの音は鳴らない。


 そう言えば昼寝をすると男子は言っていた。

今の時間まで寝てるとかある? と、私は携帯電話をバッグに直す。

その時、後輩に貰ったお菓子のカップが指に当たった。

お昼ご飯の時に食べようと持ってきたらしいのだけれど、お腹いっぱいだったらしく教科書達で重いので、と頂いたのだ。

お残りでも美味しくいただきます。

名前は確か……パピ……絶対違う、と思い出す。


「……パポシュ・デ・アンジョ」


 小さく呟いて天文部の扉を軽く二度、ノックした。

声は返ってこない。

そっ、と扉に手を掛けると、開いた。

鍵がかかってないとすれば誰かいるはず──いた。


 少しだけ開いた窓から入る風にカーテンが、ゆらり、揺れている。

その窓際の、下。

ちょうど影になっているところに男子が倒れていた。

訂正、寝ていた。


 ほんとにお昼寝……お夕寝してるなんて。


 ノックも扉の開閉音でも起きないところを見ると、どうやら本気寝らしい。

脱いだ学ランが机に投げられていて、一冊の本を枕にしている。


 私は男子のそばに立って見下ろした。

仰向けで右足だけ膝を立てていて、左手はお腹の上で、右手は顔の横に倒れている。

やっぱりゲームだったようで、携帯型ゲーム機は頭の上にある。

すーすー、と一定のリズムの薄い寝息が聞こえる。


 スカートを体に撫でつけながらしゃがんだ私はまだ見下ろす。


 ……寝てると幼く見えるって本当ね。


「……クサカくーん」


 起きない。


「……リョウくーん」


 起きない……いらっ。


 もう少し寝かせてあげましょう、と立ち上がって鞄を机に置く。

このままじゃ皺になってしまうかも、と学ランを手にとって──広げてみた。


 ……ふむ。


 やっぱり男の子、大きいサイズで少し重い。


 ちらり、と男子を見てから私は学ランに袖を通した。


 ……手がちょっとしか出ないわ。


「……あは」


 セーラー服の上から男子の学ランを羽織った私は窓ガラスに薄く映る自分を見た。

肩も合っていなくて袖も長い、丈ももちろん長い。


 ふふっ、だぼだぼ。


 後ろはどうかな、とゆっくり、くるり、と一回転した時──。


「──へぷしょっ」


 男子が小さくくしゃみをした。

起きた? と思ったら鼻を軽くこすって睡眠続行のようで、ふぅ、と一息ついた私は窓を閉めた。


 可愛いくしゃみ……私の方が豪快ってどういう事なの。

むん。


 閉めたガラスの向こうは夕暮れが落ちてきている。

けれどもう少し我慢して、と鍵を締める。


 もうちょっとだけ、可愛い寝顔が見たいので。


 ……お菓子食べちゃおっかなー……一個だけなのよね。


 そう考えながら私は学ランの余った袖をぶんぶん揺らすのだった。

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