第169話 ひと口チョコレート(前編)

 オオカミ先生にお説教されて出てきた廊下は閑散としていて、閉め忘れた窓からは冷えた風が泳いでいる。

そんな窓を先生は閉めて、ネクタイを少し緩めた。


「冷えてきたなー」


 放課後は夕暮れが近づいてきたか、遠くの雲が薄っすら桃色に染まっている。


「ん」


 と、オオカミ先生は隣を指差した。

ここ、と人差し指はまだ床を差していて──。


「──後ろじゃなくて隣に来い。落ち着かねぇ」


 二歩ほど後ろを歩いていた私に、先生は半分振り向いて言った。


 オオカミ先生──オオツキ先生とはあまり話した事はない。

書道部でも私は副部長だし、部活に関してはほぼほぼ部長にお任せだ。

ものくろ屋さんの依頼では話したけれど、こうやって個人では初めて。


 私は隣に並んだ。

オオツキ先生は背が高い。

男子よりも少し高いくらいか。


「ものくろ屋は惜しかったな」


 世間話か、そう言ってきた。


「そうですね。けれど良い挑戦でした」


 オオツキ先生の歩く速度が遅くなった気がする。

私に合わせてくれているのか、ださいサンダルに目を落とす。


「あれから行ってないだろ」


「え? どうして──」


「──店の主人は俺の先輩でな。カナリア先輩。色々知ってんだわ」


 シロクロさんとオオツキ先生はこの学校のOBで、ひょんな事から先輩後輩として付き合いがあるという。

今でも何かしらあれば連絡が来たりするとか。


「私も行きたいと思ってました」


「もうオープンしてるしな。時間があったら行ってやってくれ。カトウの字もあるしな」


 カトー君の字を見に、書道部の皆で行くのもいいかもしれない、と私は楽しみを微笑む。


「──さっきの話だが」


 と、オオツキ先生は話を変えた。


「校則違反の話ですか?」


「いや、ひそひそ話の方」


 ああ、と私は手を後ろに組んだ。


「クサカを責めたりしないでくれな?」


 男子の事、秘密の事。


「しませんよ?」


「クラキはそういうの得意そうだからな、念押し」


 む。

口を尖らせて黙る。


「はっ、いい生徒だなー、お前」


 ん?

目だけを向けた。


「表情くるくる。クサカのおかげか?」


 笑ったり、怒ったり、困ったり、迷ったり──男子のおかげ。


 それはそれは──。


「──クサカ君のせいで、毎日楽しいんです」


「おー、いっちょ前に当ててきやがって。羨ましいねぇ」


「羨ましい?」


 教室棟から職員室がある棟に入った廊下で、私はオオツキ先生の顔を覗き込んだ。


 先生は、先生の顔をしている。


「俺も生徒に戻りたくなるのさ」


 それは大人ではなく、大人のような子供に、という事。


「……もし私が先生と同級生だったら、どうなんでしょう?」


 想像がつかない。


「どうもねぇさ。望んでない空想は出てこない」


 先生は、先生だ。

だから私はこう言ってしまった。


「──もし先生が今、高校生だったら、きっとイツキさんはいない」


 先生と関係がありそうな、イツキさん、という人。

私はその人を知らない。

なのに、言わないと決めたばかりなのに言ってしまった。

いいえ、私は言いたかった。


 オオツキ先生は鋭い目つきの上に驚きを乗せている。

その睨みは私の余計な一言のせい。


「……お前は大人だなぁ」


「まさか。まだまだ子供です」


 しらない事たくさん、大人は何かもわかっていない、ただの子供。

大人になりかけの、生徒だ。


 私は廊下を先に歩いて職員室の扉を開ける。

するとオオツキ先生は後ろから私を呼んだ。

そのまま耳元で、ひそひそ話──。


「──先生っつっても恋やら愛には子供同然。お前らと一緒だよ」


 そう、囁いてきた。

私はそのまま自分の唇に人差し指を当てた。


「……新たな秘密に貸し借りは?」


 数学のプリントと交換、と私は提案する。

するとオオツキ先生は軽くデコピンしてきた。


「それとこれとは話は別ですよー?」


「冗談です」


 おでこをさする。


「よろしい。では代わりに──」


 オオツキ先生は自分のデスクに座ると引き出しを開けて、キャンディ包みされたひと口チョコレートを二つ、渡してきた。


 それは、秘密の代わり。


「はい、明日までに提出な。さぼったら一枚追加」


「……先生ってむかつくわ」


 そう言うとオオツキ先生は、ぺそん、と私の頭にプリントを乗せてきたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る