第6話 (1)
付き合って、というのは、自分たちにとっては音楽記号のような言葉だと思う。練習に「付き合って」、この曲をやるときは「付き合って」、伴奏に「付き合って」、ちゃんと恋人として「付き合って」――などなど。
音楽記号一つひとつに意味があるように――たとえば「to Coda」がかならず「コーダに向かう」ように、この言葉にもちょっとしたフックのような、曲がり角にはかならずある標識のような、そういった、何かの力があるような気がする。
――というのは考えすぎだろうか、と、いくらか見慣れてきた景色とじりつく太陽を感じながらみそらは思った。
翌週、二人はまた三谷の実家のほうにいた。でも今回向かっているのは自宅ではない。駅からしばらくは同じ道を歩き、それから少しして道がそれる。
住宅街は夏の日差しに照らされて、みんな暑さを避けて室内にいるように静かだった。猫が通ってにゃあと鳴く。アスファルトの上を熱くないのだろうか。セミはもちろん元気だ。庭木の緑は夏の盛りの濃い緑――それらを眺めてしばらく、三谷が「ここ」と言った。
そこは平屋だった。瓦、板、玄関のすりガラスの感じなどから見てもわりと古い住宅だ。手前には小さな畑があって、そこにはトマトやきゅうりなどの夏野菜がこじんまりと実っている。
それを横目に家屋の玄関にいくと、やっぱり色のあせたレンガについているインターホンがある。それを三谷が押すと、「ぴん」、そして指を離すと「ぽーん」というタイミングで音がした。またセミの音が耳に寄せてくる間に軽い足音が聞こえて、ガチャリと音を立てて内側から玄関のドアが開く。
「いらっしゃい。さ、上がって、暑いでしょ」
ドアを開けて顔をのぞかせたのは、たぶん自分たちの親よりいくつか年齢が若そうな女性だった。長い黒髪が落ちないようにバレッタで止めている雰囲気はどこにでもいそうな「お母さん」という印象だったけれど、――目があった瞬間にみそらは思った。あっやばい、この人ぜったい癖がある。ぜったい圧が強い人だ。
「まあ、あなたが『みそらちゃん』?」
やっぱり、と思いながらみそらはうなずいて微笑んだ。こういうときこそ、舞台に上がる度胸と胆力が役に立つ。
「はい。はじめまして」
「わー、ほんとにかわいい。
みそらが口を開きかけたところで三谷が間にわりこんだ。
「先生、中に入れって言ったのに、ここでそういうこと言う?」
「ああ、ごめんごめん。ほんと上がって、狭いけど」
あっけらかんと笑って、女性は――三谷の高校までのピアノの先生はドアをもう一度大きく開けた。三和土も昔ながらのつくりで、狭くてひんやりと冷たく、そして段差が大きい。履きやすい靴にして正解だった、と思いながら、みそらはいざなわれるままに「お邪魔します」と上がった。
廊下も狭いし、壁も今では見ないような塗装だ。でもそれがやけに懐かしくて、みそらは少しだけ下唇を吸い込んだ。「お茶をいれてくるわね」と言った先生はそのまま台所に消えたけれど、三谷は慣れた様子で部屋を進んでいく。その部屋にはすぐに着いた。
畳のお座敷、その中にあるグランドピアノ。ふすまを開けて見えたその不思議なコントラストにみそらは一瞬見とれた。八畳くらいの広さの中に、ピアノと楽譜の詰め込まれた棚、そして何人もの生徒や保護者が座ったのだろう、少しくたびれた色をしたソファとテーブル。
――ここにしかない景色だ、と思った。ぜったいにドビュッシーやショパンは知らない、和の色に
「
音に振り返った喜美子さんの前にあるグラスはほとんど空で、形のゆるくなった氷が光をはじくのが見える。
「みそらちゃんも。早く入りなさい、暑かったでしょう」
自分の家のように言う喜美子さんに思わずみそらは笑った。喜美子さんもピアノと同じように、この景色になじんでいる。
「もういらしてたんですね」
「半時間くらい前にね。先生ともしばらく、直接はお会いしてなかったから」
気づけば三谷は近くにいなかった。なんだろう、と思った直後、そうか、と気づく。手を洗いにいったのだ。昔そうしていたように。
みそらは喜美子さんの隣に腰をおろした。すると喜美子さんは「ごめんね」と言った。
「あの子、わがままだから。遠くまでいっしょに来てもらって申し訳ないわね」
「頑固だものね。こうやりたい、って思ったらやってみたくなっちゃうしね」
すらっとふすまが開いて、三つの新しいグラスをお盆に載せた先生が喜美子さんの言葉を自然と継いだ。それを聞いてみそらは、ああ、まだまだだと思った。自分がいっしょに過ごした時間は、まだとても短い。
先生は麦茶の入ったグラスを、喜美子さん、みそら、そしてテーブルの一番ピアノに近いほうに置くと、「夕季」と言った。
「わたし、曲の内容についてあれこれは言わないわよ。今は担当講師じゃないんだから」
「わかってるよ。こないだチャットでもそれ聞いたし……」
いつの間にかふすまの横には三谷が戻ってきていて、また自然と言葉を継いだ。彼はピアノの椅子の横に荷物を置いて、そのまま腰を下ろす。レッスン室らしい、背もたれのある硬い椅子だ。高さを調整するとガタガタと音が鳴る。使い込まれているのだろう。
その間に先生は隣に自分の椅子を持ってきていた。いつもそこにあるのだろうと思わせる椅子の座面には薄い座布団があって、それも色あせていた。それに先生が腰掛けると、三谷は楽譜を差し出した。それを先生は黙って受け取って、ページを開く。一連の動作は、指導者らしい迷いのなさがうかがえた。
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