筒井つづりの取りとめない話
白ゆうき
1の本
良いオタクと悪いオタク
「昔むかしある国には『良いオタク』と『悪いオタク』がいました」
「そんな『良い魔法使い』と『悪い魔法使い』みたく言われても……」
図書室のカウンターに両肘をつき、組んだ手の甲の上にあごを載せながら。
自分は読んでいた本をカウンターの上に置く。木目の美しい天板は触れると一瞬ひやっとしたが、しかしすぐ体温になじんで心地よくなった。
聞く姿勢を整えて、自分は右手側に座る彼女に意識と身体を向けた。
「良いオタクは言いました。『私の好みは万人に適用されるされるものではないが、少しでも多くの人に同じものを好きになってもらいたい』と。そして悪いオタクは言いました。『アニメの女の子萌え萌え~、ぺろぺろちゅっちゅ』」
いきなりアニメオタクへの偏見が強すぎる。
「悪いオタクは豚のような顔をだらだらと流れる脂汗をチェック模様のシャツの袖でぬぐい、ぶひぶひと気持ち悪く笑いました。人々はそれを見て、いつか自分たちの娘にも悪さをするのではないか、ととても不安になりました」
「つづり嬢、アニメオタクに家でも燃やされたの?」
彼女は視線をちらりとこちらに向けて、軽く首を傾げた。さらさらと癖毛の髪が揺れる。
「川森さんに少し話を聞いただけ」
「あ、そう」
話の腰を折ってもいけない。自分はただ短く、それだけを返した。
一応フォローするが、つづり嬢自身はほとんど偏見を持たずに生きている純真無垢で
「……悪いオタクはいつか罪を犯します。その前に早く捕まえてくださいな。憲兵たちのもとに届く嘆願は日ごとに増えていきました」
ハスキーというほど低くもなく、そして高くもなく、少しかすれたようなささやき声。それは静寂な空気を伝い、すっと意識へ染み込んでくる。
「彼は何も罪を犯してはいない。だから捕まえることはできない」
毎度のようにそう返答していた憲兵たちですが、嘆願が増えるにつれて、やがて不安を感じる者も出てきました。もしかして、本当に、このまま放置すれば、奴は取り返しのつかない事件を起こすのではないか、と。
未然に防げた犯罪を見逃したとあれば憲兵の責任問題になります。その不安はじんじん、ずんずんと彼らの心に降り積もり、とても無視できない重石となっていきました。
ある日、悪いオタクは買い物に出かけました。なんてこともない、ただの食料の買い出しです。その大通りを歩く彼の前に、赤いボールがコロコロと転がってきました。それを追いかけてきたのは6歳くらいの女の子です。
「どうぞ」
悪いオタクはボールを拾って差し出しました。
少女はそれに手を伸ばします。
その光景を見ていた憲兵の一人が、悪いオタクの腕を強く掴みました。
「お前、その女の子に何をするつもりだ」
悪いオタクは少女誘拐未遂の現行犯で捕まってしまいました。
自分はただ純粋に、その展開に驚かされた。
「えっ、捕まえてしまったのかい?」
「捕まってしまったわね」
「悪いオタクとは言うけれど、今のところ『気持ち悪い』だけで『悪い』ところはないのでは?」
「気持ち悪いことは良いこと? 悪いこと?」
右手を枕にするように頬杖の位置を変えて、彼女はいたずらな視線を向けてくる。そして自分が返答に詰まると、実に満足そうに微笑んだ。
「アリストテレスは人間はポリス的な動物だと言った。互いを尊重しあい善き社会を形成していくという合意の下で文化を形成してきたのが人間であり、他者に不安や不快感を与える存在がはじき出されるのは当然とは思わない?」
「多数派の
「だから、悪いオタクを危険視する意見も憲兵は無視しつづけるべき?」
「犯罪者ではない。だから、捕まえるのはおかしいだろう」
「女の子をさらおうとしたのに?」
「それは誤解だ」
「あまりにも女の子がかわいくて、さらってしまおうと発作的に思っていたかもしれない。優秀な憲兵はそれを
「証拠がない。疑わしきは罰さずだ」
つづり嬢は目を伏せた。長いまつげが悲しげに震える。
「佐竹くん」
佐竹。同じクラスだ。多少暴力的で、多少女性関係に問題があるという噂がある。
「最近、彼からいやらしい視線を感じるの。すれ違うときもじろじろ胸や足を見られている気がする……」
彼女の言葉につられるようにカーディガンを押し上げる平均程度のバストと、スカートから伸びるしみ一つない細い足へと順に視線が移ってしまう。
万が一、被告人──佐竹が強引な手段に出れば、
「といっても、証拠は何もないのだけれど」
それを付け足した彼女の意図は明白だった。
明白だったが、彼女がその小さな身体をぎゅっと抱きしめた拍子にかすかに強調された胸に自分は釘づけになった。この
「疑わしきは罰さず?」
「捕まえることは……できないけど」
「何かされるまで、私はずっと不安なままでいないといけない?」
「それは……その」
なるほど、自分は理想論を語っていたのだと気づかされた。
身近な人物に差し迫った脅威があるかもしれない。そう思えば、何かが起こってから対処したのでは遅いと強く思う。これは恐怖だ。人間は感情の動物である、と語った人もいるように、それを無視するのは難しい。
「自分がわざと挑発して、一発殴られれば、あいつは退学になるかもしれない……」
つづり嬢は面食らったように、いつもは眠そうな瞳をぱちぱちとさせた。
「それ、犯罪を誘発していない?」
「法を守っている以上どうにもできないのであれば、法を破る方向に誘導するしか……」
「でも、さすがに佐竹くんに殺人を犯させるなんて」
「自分一撃で死ぬと思われてます?」
「ふふふ……っ」
つづり嬢は無邪気に笑った。その貴重なワンシーンは入念に脳裏に焼き付けておく。
「冗談よ。全部。冗談。あなたの綺麗な顔に傷を作っては大変」
ある程度予想はついていたけれど、ほっと胸をなでおろす自分を認識する。
「そもそも私なんて、あの人の眼中にもないと思うけど」
「そんなことない」
「それは、あなただからそう思うのでは?」
見透かしたように言われ、かっと顔が熱くなる。
「ところで、良いオタクがそのあと悪いオタクを助けてくれたりしたの?」
露骨に話をそらした自分に対してか、自らが語る物語に対してか。あぁ良いオタクね、とつづり
「列車の写真を撮ろうと線路に侵入して業務執行妨害で捕まったわ」
「オタクに対する偏見が強すぎる……」
とりあえずこの日自分はつづり嬢の偏見を訂正したうえで、主犯である川森兄妹をどう現世の地獄へ落としてやろうかと施策を練ったのであった。
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