私が心のどこかで理不尽だと思ってしまっていた人たちへ

 私が心のどこかで理不尽だと思ってしまっていた人たちへ



 人が嫌われるのには理由がある。みなさんも、知っているだろう、そんなこと。私も知っているつもりでいた。つい、さっきまで。

 みなさんは、ジグソーパズルをするときにボードに糊でピースを貼っていくタイプだろうか。私は貼らない派なのだが、その場合、飾るときにある問題が生じる。どうしても傾いてしまうから、ピースが撓んできて、辛うじて嵌まっているだけ、という状況が生まれる。そのピースをとんっと指でつついたらどうなるだろうか。全て崩れ落ちるに決まっている。今まで見えていた綺麗な絵なんてまさに木っ端微塵だ。どんな絵をそこに見ていたかなんて一瞬で思い出せなくなる。

 みなさんは、テーブルクロスを使っているだろうか。そのテーブルクロスがかかっているテーブルはどんなものだろうか。もし、天板が透明なガラス製だというのなら、ぜひとも、裏から覗いてみてほしい。テーブルクロスの裏側が見えるだろう。綺麗な文様を生み出している緻密な糸のもう一つの姿。水の下でもがいているハクチョウの話は有名だけれど、あれは美談とも言える。

 朱に交われば赤くなると言うし、ストレスは伝播するとも言う。それと同じで、暗い気持ちというのも人から人へ伝わるものだ。ある人から、自分はこんなことをしてしまったんだと告白を受けたとき、そのことが自分に直接関係なくてもあっても暗い気持ちにはなるだろう。そのときに、人の自白を聞いてやっている、というある種の優越感が自らを襲うかどうかに個人差はあるだろうが。

 そんなことを考えると、罪の告白とはなんともエネルギーを持っているものだろうかと思う。でも、物理学の世界以外にもエネルギー保存則が成立するとすれば、至極当然だとも言える。だって、その告白を行うのにエネルギーが要請されるのだから、その告白を受けた方は相応のエネルギー、それも後ろ向きのエネルギーを受け取らなければならないことになる。その告白が何年にもわたる事柄に関係のあることだったら猶更だ。その長さ、重大さに比例してエネルギーは増大する。もしかしたら、一次比例なんていう生易しいものではないかもしれない。

 だから、こんなことを誰かに打ち明けるなんて罪まで私は上乗せしたくない。今から告白する罪に比べたら比較的軽い罪なのかもしれないが、それも今だけの話だろう。罪というのは後々にその悪質さを現すものだ。何人もの人生を狂わせてしまった。端的に言えばこうだろうか。この話を聞いてしまったみなさんの人生の歯車もここまでの駄文によって一部分噛み合わせが悪くなってしまったかもしれない。それはご容赦いただきたい。では、紙幅の都合ということにして、これ以上の深入りは止めることにする。まあ、どの程度まで踏み込めば深入りになるのか、ということを私もまだ把握できていないのだが。最後に紙幅の都合と言える字数に調整した己の狡猾さをここに認めて筆を擱くことにする。

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