朝帰りの夫と妻

 土曜の朝9時。会社は休み。俺は朝帰り。別に飲んで夜を明かしたわけではない。大学生のときのバイト先で知り合った妻と結婚してほぼ5年。子どもはいない。新婚当時とは違って、だいぶ妻とのコミュニケーションは減った。最近は妻も仕事が忙しいみたいで、すれちがい生活になっていた。俺は昨晩、会社の事務の女性と会っていた。まあ、平たく言えば不倫である。最近は金曜日に会うことがお決まりとなっていた。朝帰りは数回あったが、それでも、彼女の家に行くのは初めてだった。彼女の家を朝に出た俺はなるべく早く家に戻ってきた。彼女と家で何をしていたかなんてことを妻が待つ家の前で思い出すというのは無粋であろう。まあ、彼女の家に泊まらなかったものの朝帰りだった日があったという事実を思い出すと、どこで夜を明かしたのかということになって、結局のところ同じようなことを思い出すことになるのだが。

 会社でトラブルが起きて急遽、結構な残業が発生した。後輩が取引先との交渉で微妙なニュアンスな口約束をしてしまうもんだから双方の認識が違っていた。最終的には相手方の要求を呑む形で一からやり直し。後輩を夜遅くまで残らせるわけにはいかないし、上司の俺の責任もある。そんなこんなでやっていたら終電も逃してしまった。タクシーを呼ぶのもばかばかしいし兄の家に泊まることにした、ということにしてある。お偉いさん方も混ぜた飲み会が長引いたというのは先週だった気がするし、その前の週は高校の友達の家に泊めてもらったはずだ。

 ここまでストーリーを作りこんでおけば大抵のことは聞かれても対応できる。飲み会のときは部長の愛犬の好きな餌の話とか、高校の友達のときはそいつの工事現場の仕事が最近に腰に来るらしい、とか。こういうことにだけは慣れた気でいた。慣れてしまったとどこか悲観的に思っていた。昨晩に限って、この連絡を打つだけ打って送信し忘れていたのが手落ちだった。それでも、妻から連絡はなかった。心配されていないのかと思うと、勝手ながら寂しい気持ちにもなるが、信頼されていると考えると悪い気はしなかった。同時に申し訳なさが浮かんでこなかったわけではない。



―—がちゃ。がちゃがちゃ。


「ただいま、朝帰りになっちゃってごめん。」妻を見るなり謝る夫。

「おかえり。いいのよ、気にしないで。」椅子を傾けつつ玄関の方に目をやる妻。

「ああ、ありがとう。トラブルがあって、対応してたんだ。そしたら、終電もなくなってね。兄貴の家に泊めてもらった。」まるで台本を読むかのような流暢な語り口。

「それは嘘ね。」


「だって昨日、お義兄にいさんの家には私が泊まっていたもの。」

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