萬(よろず)という漢    日本書紀外伝

西尾 諒

第1話

 熊笹くまざさの陰に身を隠し、男は逃れてきた方角を一心に見守っていた。足元から踏みしだかれた笹葉の青臭い香りが微かに漂ってくる。

 その男、みじろぎ一つしない。まばたきさえしない。

 髪も髭も伸び放題である。まとった衣は薄汚れ、ところどころ擦り切れており、衣を留める帯の端は垂れ下がって地面にとぐろを巻いている。

 だが乱れた髪の下にある男の眼は鋭い光を湛え、薄い唇は真一文字に引き結ばれている。擦り切れた衣服の下には隆々とした筋骨がのぞいている。

 文月ふみづき十日。

 秋に入ったとはいえ、夏は閉じたばかりである。陽は人の定めた季節など関せぬとばかりに、燦燦さんさんと乾いた土に光を注いでいる。

 その強い日差しの中を長い間走り続けたせいで、体には汗に吸いついたほこりが薄汚く纏わりついている。額から埃を吸った汗が浮かびあがると、きらりと光りを帯びて滴り落ちた。

 男はその汗をぬぐうことさえしない。獲物の蟋蟀こおろぎを見据える蜥蜴とかげの如く、男の視線は冷たく、ただ一点を見据えていた。左の手には一本の縄が握られており、その先は、男の遥か左手にある笹のくさむらに巻き付けられている。

 男が凝視しているのは小道を隔てた先にある淡竹あわたけの林である。竹林は人の手が入っていたせいで熊笹の繁みあたりよりよほど明るい。

 その中から追手たちは現れるに違いない、と男は確信している。もし自分が追手の立場であったなら、時間をかけてでも後ろに回って襲うであろう。

 だが熊笹は密に生えている。掻き分ければ音がする。

 音がするだけではない。夏の間に育った笹の枝は強くしなり、掻き分けるだけで一苦労である。固くなった葉は手や足を薄い刃物のように切りつける。

いくさに不慣れな追手たちは間違えなく楽な竹林を通るのを選ぶであろう。


 男は油断なく目を配りながらも、あることを思い出していた。

 淡竹はやまとの産ではない、からからへ渡って来たものだと、昔主人が言っていた。それが韓の地で根付き、更に海を越えて渡って来た物を主の先祖が贈られたのだ。

それをここに植え、かような見事な竹の林ができたのだと、その時主は両の手をいっぱいに広げながら自慢げに話していた。

 その淡竹は今ではおのれ出自しゅつじなど一切気にもしてないかのように一面に蔓延はびこっていて、先端は空に向かって人の背丈の五倍ほども伸び、いささかもはばかる様子はない。忌々いまいまし気に男が舌打ちをしたのはこうして自分を追い詰めているものの大本が淡竹と同じく渡来したもののように思えたからだ。

 だが・・・。

 どうやらそれも竹と同じく昔からここにいたのだと言いた気に、いずれこの地に居座るのであろう。


 ほろ苦い笑みを零したその時、竹の林の奥で人の声が聞こえ、男は表情を引き締めると、音を立てないように身をかがめた。

 やがて淡竹の向こうに人影らしいものがごそごそと無様ぶざまな音を立ててうごめくように近づいて来るのが見えた。男は地に置いた弓とに目をわせた。

 人影は一つではない。竹と竹の間を、身を屈めそろそろとこちらの方に向かってくるのは十四・五人と言ったところであろうか。

「あのようなへっぴり腰で何ができるか」

 と内心思いながら、男は瞬きもせずに兵たちの動きを見ている。先頭の兵の顔がはっきりと見える頃合いになると、男は太いが器用に動く指で綱を握り直した。

ぐっと、引いた綱に応じてはるか先の熊笹が音を立てて動いた、その瞬間、兵たちはひきつけられたかのように視線をてんじた。中にはよほど慌てたのか、腰をひねって転ぶ者さえいる。

「いたぞ」

 と先頭の男が吼え、一斉に兵たちはざわめいた熊笹の方向に向かった。

 男の左手は既に綱を放し、弓を持っている。右手で一番近いところにあった箭を掴むと、男は素早く番え、迷うことなく放った。箭は空気をひょう、と音を立てて空気を引き裂き、先頭にいた兵の頸筋くびすじに正確に突き刺さった。

「げえっ」

 と叫ぶなり倒れた男を視て、兵たちは動揺した。そのまま動けず、きょろきょろと辺りを見回している。中の一人がこちらの方を見た瞬間、二本目の箭を男は放った。

 箭はその兵の右目を貫いた。

 今度は悲鳴さえも上がらなかった。どさりと倒れこむ音が聞こえただけである。

「うわ」

 たちまち兵たちは浮足立った。

 そのうちの何人かはあたふたと箭を番え、所かまわず放ち、そのうちの何本かが男の隠れているあたりにも飛んできた。

 そんな兵たちに向かって男は表情一つ変えることなく次々に箭を放った。一本も無駄にすることなく箭は兵たちを次々と貫いていく。頸の急所を貫かれた兵たちが悲鳴を上げながら続々と倒れこんでいった。

 残りの兵たちは後ろも見ずに逃げ出した。

「七人・・・か」

 兵たちがすべて逃げ去ったのを確認すると、熊笹に隠れていた男は、のそりと淡竹の林へ歩みだし、己の放った箭の犠牲になった人の数を呟いた。

 ついさっきまでみどりがかった澄明ちょうめいな光に包まれていた場は鮮血せんけつまみれた殺戮の跡へと化していた。

 男は倒れている兵を一人一人確かめていった。最初に倒した男を除いてみな自分より若い男たちである。いずれも半年前は手に握ったもみを田にまいいていた農夫たちに違いあるまい。その稲の刈り取りもできずに彼らは竹の肥やしになってしまうのだ。

 自分でも気づかず男は太い吐息をつくと空を仰いだ。

 倒れた男たちの中にまだ息のあるものが一人いた。放った箭の一本だけが急所に当たらず、わずかに下に逸れたのである。男はさきほどと別のたぐいのため息をつき、首を振った。

 傷ついた兵は肩を貫いた矢に手を掛け、激しくあえいでいた。助からぬことは明らかである。放っておいても苦しみが長引くだけであろう。

 喘いでいる頸の根に小刀を当てた時、ふと男の頭に一つの言葉が去来きょらいした。

 慈悲じひという語である。

 その語の向こうに一人のわかい男の顔が見え隠れする。

 その男は、慈悲とは苦を取り去る事であると言っていた。ならば苦しんでいるこの兵の痛みを取り除いてやることは慈悲なのだろうか?

 ふっと眉の根を寄せると今度こそ躊躇いも見せずに男は倒れた兵の頸の付け根を小刀で裂いた。血が迸り、兵はがくりと首を垂れた。

 ぜいぜいと喘ぐ苦しみの音は止んだ。

 それが慈悲であったのかどうか男には分からぬ。ただ、喉の奥に苦い思いが込み上げてきただけであった。

 男は手近にあった笹の葉を引き抜き、小刀の血を拭いた。そして、しばらく手の中の小刀を見つめると、血を拭った笹の葉を苛立たし気に投げ捨て、

「なぜこんな事になったか」

とひとりごちた。

 その男の名を、捕鳥部萬ととりべのよろずという。

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