萬(よろず)という漢 日本書紀外伝
西尾 諒
第1話
その男、みじろぎ一つしない。
髪も髭も伸び放題である。
だが乱れた髪の下にある男の眼は鋭い光を湛え、薄い唇は真一文字に引き結ばれている。擦り切れた衣服の下には隆々とした筋骨がのぞいている。
秋に入ったとはいえ、夏は閉じたばかりである。陽は人の定めた季節など関せぬとばかりに、
その強い日差しの中を長い間走り続けたせいで、体には汗に吸いついた
男はその汗を
男が凝視しているのは小道を隔てた先にある
その中から追手たちは現れるに違いない、と男は確信している。もし自分が追手の立場であったなら、時間をかけてでも後ろに回って襲うであろう。
だが熊笹は密に生えている。掻き分ければ音がする。
音がするだけではない。夏の間に育った笹の枝は強く
男は油断なく目を配りながらも、あることを思い出していた。
淡竹は
それをここに植え、かような見事な竹の林ができたのだと、その時主は両の手をいっぱいに広げながら自慢げに話していた。
その淡竹は今では
だが・・・。
どうやらそれも竹と同じく昔からここにいたのだと言いた気に、いずれこの地に居座るのであろう。
ほろ苦い笑みを零したその時、竹の林の奥で人の声が聞こえ、男は表情を引き締めると、音を立てないように身を
やがて淡竹の向こうに人影らしいものがごそごそと
人影は一つではない。竹と竹の間を、身を屈めそろそろとこちらの方に向かってくるのは十四・五人と言ったところであろうか。
「あのようなへっぴり腰で何ができるか」
と内心思いながら、男は瞬きもせずに兵たちの動きを見ている。先頭の兵の顔がはっきりと見える頃合いになると、男は太いが器用に動く指で綱を握り直した。
ぐっと、引いた綱に応じてはるか先の熊笹が音を立てて動いた、その瞬間、兵たちはひきつけられたかのように視線を
「いたぞ」
と先頭の男が吼え、一斉に兵たちは
男の左手は既に綱を放し、弓を持っている。右手で一番近いところにあった箭を掴むと、男は素早く番え、迷うことなく放った。箭は空気をひょう、と音を立てて空気を引き裂き、先頭にいた兵の
「げえっ」
と叫ぶなり倒れた男を視て、兵たちは動揺した。そのまま動けず、きょろきょろと辺りを見回している。中の一人がこちらの方を見た瞬間、二本目の箭を男は放った。
箭はその兵の右目を貫いた。
今度は悲鳴さえも上がらなかった。どさりと倒れこむ音が聞こえただけである。
「うわ」
たちまち兵たちは浮足立った。
そのうちの何人かはあたふたと箭を番え、所かまわず放ち、そのうちの何本かが男の隠れているあたりにも飛んできた。
そんな兵たちに向かって男は表情一つ変えることなく次々に箭を放った。一本も無駄にすることなく箭は兵たちを次々と貫いていく。頸の急所を貫かれた兵たちが悲鳴を上げながら続々と倒れこんでいった。
残りの兵たちは後ろも見ずに逃げ出した。
「七人・・・か」
兵たちがすべて逃げ去ったのを確認すると、熊笹に隠れていた男は、のそりと淡竹の林へ歩みだし、己の放った箭の犠牲になった人の数を呟いた。
ついさっきまで
男は倒れている兵を一人一人確かめていった。最初に倒した男を除いてみな自分より若い男たちである。いずれも半年前は手に握った
自分でも気づかず男は太い吐息をつくと空を仰いだ。
倒れた男たちの中にまだ息のあるものが一人いた。放った箭の一本だけが急所に当たらず、わずかに下に逸れたのである。男はさきほどと別の
傷ついた兵は肩を貫いた矢に手を掛け、激しく
喘いでいる頸の根に小刀を当てた時、ふと男の頭に一つの言葉が
その語の向こうに一人の
その男は、慈悲とは苦を取り去る事であると言っていた。ならば苦しんでいるこの兵の痛みを取り除いてやることは慈悲なのだろうか?
ふっと眉の根を寄せると今度こそ躊躇いも見せずに男は倒れた兵の頸の付け根を小刀で裂いた。血が迸り、兵はがくりと首を垂れた。
ぜいぜいと喘ぐ苦しみの音は止んだ。
それが慈悲であったのかどうか男には分からぬ。ただ、喉の奥に苦い思いが込み上げてきただけであった。
男は手近にあった笹の葉を引き抜き、小刀の血を拭いた。そして、しばらく手の中の小刀を見つめると、血を拭った笹の葉を苛立たし気に投げ捨て、
「なぜこんな事になったか」
とひとりごちた。
その男の名を、
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