第10話 ここにいて依依恋恋
マリアは、自室でパーティー会場の図面を開いていた。
身につけたレモンイエローのサマードレスは、今夏にあわせて新調したものだ。
開けた窓から入ってくる風が、チュールで作られたスリーブに越しに肌を撫でるので、気温のわりに暑くはなかった。
指で図面をなぞりながら、どんな風に飾られるかイメージしていく。
「たしか、ここには軽食ブースが用意されるはず……」
「失礼いたします、マリアヴェーラ様。宮殿よりお手紙が届いております」
ジルが持ってきた白い封筒を見て、マリアは表情を明るくした。
「レイノルド様から?」
「いいえ。第二王子殿下の側近殿からです」
「そう……」
レイノルドと手紙のやり取りが途絶えてから、十日が経った。
マリアからは送っていない。音信不通がいちばん良くないとは分かっていても、あんな預言を聞いたあとでは気後れもする。
レイノルドからの連絡を待つことにしたが、待てど暮らせど一報すら届かなかった。
報せが来ないのは、彼なりに破滅の預言に対処しているのかもしれないし、国王が結婚を認めるかどうか熟考している最中だからかもしれない。
ここでマリアが報告をほしがれば、急かされているように感じるはずだ。
(これ以上、レイノルド様の負担を増やさないためにも、我慢しなくては)
どうせ、明日にはパーティーの打ち合わせのために宮殿に行く。レイノルドも同席するので、そこで尋ねてみればいい。
そう思っていたのだが――封筒を受け取ったマリアは、便箋を開いて驚いた。
「明日の打ち合わせは中止する?」
几帳面な側近の字で記されていたのは、レイノルドと逢える機会の喪失だった。
「理由は、第二王子殿下が体調を崩して、伏せっておられるため……大変だわ! 急いで出掛けます。服装はこのままでいいから、髪だけセットして上着を準備してちょうだい」
マリアは、大急ぎで支度をととのえて、公爵家の馬車に飛び乗った。
馭者に頼んで、できるだけ速く宮殿まで走ってもらう。
流れるように過ぎ去る景色を、両手をきゅっと握ってながめた。
(預言を聞いた日に、一人で帰ってきたわたくしの馬鹿。どうして、レイノルド様をお側で支えようと思わなかったの!)
門番に事情を説明して、なかに入れてもらう。
宮殿のまえで馬車を降りると、駆けつけてきた眼鏡の側近が一礼した。
「ようこそおいでくださいました、ジステッド公爵令嬢。急用とのことですが、ご用件は」
「レイノルド様が体調を崩されていると聞いて、いてもたってもいられませんでしたの。お部屋まで案内してくださいますか?」
「承知しました。殿下はお喜びになるでしょう。二日前にお倒れになるまでは、連日、貴方様からの手紙が届いていないか気にされていましたから」
「わたくしからの手紙を、待っておられたのですか?」
「ええ。手紙が届かないなら、殿下自らジステッド公爵家に行きたいとおっしゃっていました。しかし、いま行動すれば余計な不評が立つので、側近一同でおいさめしたのです。『国を破滅させる預言があったのに、どうして第二王子は婚約を破棄しない』という過激な意見が噴出しておりまして……。殿下は、こちらでお休みです」
豪奢な扉の向こうの部屋は、カーテンがぴっちり閉められていて、うす暗い。
中央に置かれた、天蓋つきのベッドのシーツがこんもりと盛り上がっている。
隣の部屋に控えていると言って側近が離れたので、マリアは一人でベッドに近づいた。
そっと覗き込むと、レイノルドは深く眠っていた。
熱があるのか頬が赤く、額は汗ばんでいる。寝息はゼイゼイと苦しそうだ。
水を張ったボウルが準備されていたので、タオルを絞って額の汗を拭くと、レイノルドの目蓋が開いた。
うるんだ瞳は、右に左に動いて、マリアを見つける。
「あんた……」
「お見舞いにうかがいましたの」
「そうか……。夢のなかで、あんたと婚約パーティーに出ていた……」
レイノルドは、ぼんやりした様子で、タオルを握ったマリアの手に頬をすり寄せる。
「クマのぬいぐるみと、カラフルな風船と、でっかいチュロスで飾られた会場で……国王やネリネたちから祝福されて……」
「幸せな夢をご覧になっていたのですね」
夢のなかの二人は、現実の自分たちとは真逆だ。
聖女の預言によって、第二王子とジステッド公爵令嬢の婚約は、手放しでは祝えないものへと変わってしまった。
第二王子からの婚約破棄も取り沙汰されている状況だ。
こうしてマリアが見舞いに来たと知られれば、さらに批判は大きくなるだろう。大勢に見られないうちに帰った方がいい。
「レイノルド様のお顔が見られて安心しました。わたくしは、これで――」
タオルを置いて、ベッドを離れようとしたマリアは、スカートをクイと引かれる感触に振り返った。
見れば、レイノルドが弱々しい表情で、マリアの服をつまんでいる。
「帰らないでくれ……」
「っ!?」
切なげに乞われて、マリアは心臓が止まるかと思った。
普段ぶっきらぼうでクールなレイノルドが、こんな風に甘えてくるなんて。
(体調を崩して、心細くなっていらっしゃるんだわ)
こんなとき、恋人にできることは、ただ一つ。
マリアは、近くにあったスツールを引き寄せて座り、スカートを握っていたレイノルドの手を両手で包み込んだ。
「はい。わたくし、レイノルド様のお側におりますわ」
すると、レイノルドは、ほっと息を吐いて目を閉じた。
聞こえてきた寝息は、先ほどより、少しだけ楽になっていた。
マリアは、水を絞ったタオルを彼の額に当てて、彼が安らかに眠れるよう手を握っていたのだった。
「――ん」
深夜、目を覚ましたレイノルドは、ぼやけた視界に暗い天井を映して、長い長い息を吐いた。
無理をしていた自覚はあるが、まさか倒れるなんて思わなかった。
眠っている間、ひどい頭痛と倦怠感、やたらと可愛らしい夢に翻弄されたが、熱が下がったせいか楽になっている。
窓枠の影が落ちる月光を浴びながら、濡れたタオルを手で押さえて起き上がる。
足に重みを感じて見ると、ちょうど膝の辺りに突っ伏して眠るマリアの姿があった。片手で、レイノルドの手を握っている。
「あんた、なんで……」
目を見開いたレイノルドは、小さく呟いて思い出す。
夢の合間に、言葉を交わしたことを。
マリアは、タオルを濡らして汗を拭ってくれた。このまま側にいてくれると思ったのに、急に帰りたそうに席を立ったから――。
「帰らないでって、言ったんだった……」
律儀にそばにいてくれたマリアの優しさに、レイノルドの胸が、きゅっと切なくなった。
レモンイエローのサマードレスは昼間の装いだ。高貴な生まれの令嬢が、昼間から一度も着替えずに夜まで過ごすなんて一大事だろう。
椅子に座ったまま突っ伏して眠るのだってそうだ。マリアに妃教育をほどこした教師が見たら、行儀が悪いと頭から角を出すいきおいで怒るようにはしたない。
そんな行いをしてまで、自分から離れずにいてくれた。
彼女の思いやりと優しさに、自然と愛しさが沸き上がってくる。
「ありがと、な」
柔らかな表情で告げて、物思う。
この人と結婚したら国が滅ぶだなんて、言いがかりにもほどがある。
マリアは、レイノルドの人生において、なくてはならない女性だ。
彼女がいるから、レイノルドは不当な扱いを受けても、心が荒れ果てても、第二王子の身分を投げ出さずに生きてこられた。
マリアと結ばれるためなら何だってする。悪役にだってなれる。
それだけ長い間、レイノルドはマリアを想い続けてきた。
「恋がしたいのは、あんただけじゃないんだぞ」
レイノルドは、唇をとがらせてマリアの頬を突いた。
すっかり安眠しているマリアは、「装飾には、もっとリボンを……いいえ、チュロスではなく」とわけの分からない寝言を発する。
「はぁ……。あんたは、ほんと……」
このかわいい恋人をどうしてくれようと思いながら、病み上がりの夜は更けていった。
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