第221話 譲れないもの
「お嬢様」
その執事の呼びかけに、結月と恵美は、同時に視線を向けた。
品よく燕尾服を着こなす執事の姿は、いつみても秀麗だ。だが、この見惚れてしまいそうなほど美しい姿も、今日で見納めかと思うと、少しもったいなく思えてくる。
「お嬢様、もう直、ディナーのご用意が整います」
「そう、ありがとう」
そんなことを思いつつも、結月はレオの言葉に、いつも通り返す。本当に、いつも通りだ。
今日は、大晦日だと言うのに、結月は、普段どおり屋敷に籠って、一人で食事をとる。
幼い頃は、大晦日に、両親が来てくれないかと愛おしんだものだった。
だが、大晦日どころか、元旦ですら両親には会えず、親戚の集まりにすら顔を出せなかった。
そして、悲しみに暮れつつも、夜な夜な一人で除夜の鐘を聞く。それ通例だった。
108の煩悩を打ち払うといわれる除夜の鐘は、いつも悲しい音を響かせていた。
だが、いつしかそれが当たり前になり、そんな日常を、もう18年も続けてきた。
だが、それも、今日が最後──
「ディナーを終え、入浴をすませたら、お嬢様の部屋へ伺います。準備を始めましょうか」
「えぇ……やっと、この日が来たのね」
レオにそう言われ、結月は嬉しそうに微笑んだ。
屋敷を去る寂しさはあれど、やはり、地獄から逃れられる安堵の方が勝っていた。
やっと、自由になれる。
やっと、あの両親から解放される。
なにより、夢が叶うのだ。
レオと誓った、幼い日の『夢』が──
✣
✣
✣
「来年は、冬弥のおかげで、いい年になりそうだ!」
その頃、餅津木家では、冬弥の父である
餅津木一族が集まる屋敷の中。
豪勢な料理と、多種多様なお酒。
そこでは、早々と祝杯が上げられていた。
女性たちは、明日の準備もあるため、そのうち席を離れるだろうが、男たちは、一晩飲み明かすつもりのだろう。
だが、それほど浮かれるのも無理もなかった。なぜなら、何度と破綻しかけた阿須加家との縁談が、やっと明るい
これには、餅津木家一同、歓喜に震え、まだ懐妊すらしていないのに、まるでお祝いモードだった。
(……いい気なもんだな。その縁談も、結月の失踪とともに流れちまうってのに)
だが、両親や兄たちが、結婚の話で盛り上がる中、その当事者である冬弥は、隅にあるソファーに腰かけ、一人ワインを飲んでいた。
シャトー・メルローという、フランス産の赤ワインだ。そして、それは、兄の誕生パーティの夜、結月にジュースだと騙して飲ませたワイン。
今思えば、どうかしていた。
お酒に強い自分でさえ、酔いが回って来るほどの度数の強い酒だ。ならば、お酒を飲んだことがない結月には、あまりにも不向きなワイン。
だが、あの時は、このワインを飲ませることも、その後、意識を失った結月を無理やり手篭めにすることについても、当時の自分には、全く
幼い日に、階段から突き落とし、怪我を負わせた負い目があるにも関わらず、それすらも、全て結月のせいにして、自分は、何をしてもいいと思い込んでいた。
全部、結月が拒絶したせいだ。
父の前で、結婚したくないと言ったから。
だから、突き落とされて当然だと、無理やり身体を暴かれても文句は言えないと、そんな非人道的な思考に陥っていた。
だけど、結月とクリスマスを過したあの日から、不思議と、目の前はクリアになった。
まるで、泥の中から這いでたみたいに。
今思えば、自分はどれだけ、この一族に毒されていたのだろう。
善も悪もなく、ただ親の望むことを行う操り人形。そして、それに気づかぬほど、自分は追い詰められていたのだろう。
きっと、結月が目を覚ましてくれなければ、この先も、この思考を持ち続けたまま、ゲスな人間に成長していたかもしれない。
(……しかし、本当に神隠しなんて、上手くいのか?)
だが、その後、ワインを飲みながら、冬弥は、静かに眉をしかめた。
今夜、結月は神隠しにあうらしい。
だが、本当は神様に連れ去られるのではなく、あの小憎らしい執事に連れ去られるわけだ。
いずれは、妻になったかもしれない相手。
そう思えば、執事に奪われることに、多少苛立ちはするが、どの道、その計画を成功させなければ、自分たちは、地獄を見ることになる。
なぜなら結月は、子供を授かるためだけに餅津木家に隔離され、挙句の果てに自分は、その結月を兄たちに差し出さねばならないのだから──
(……失敗したら、マジで地獄だな)
「なぁ、冬弥! 次はいつ、結月ちゃんに会うんだ?」
「!」
するとその瞬間、一人、
散々、
「……正月明けたら、会う約束をしてるよ」
約束はしていないが、あくまでも恋人のフリを貫けば、春馬たちは、今度は結月の話で盛り上がりはじめた。
結月は、阿須加家のご令嬢。それも、若くて美人な娘が、一時的に餅津木家にやってくる。
元はと言えば、卒業後に同棲をするという話を、最初に持ち出してきたのは兄たちだった。
ならば、初めから、結月に手を出すつもりで、そんな提案をしてきたのかもしれない。
箱入り娘である結月と接触する機会なんて、滅多にない。でも、餅津木家に招き入れてしまえば、それが可能となるから──
(っ……マジで胸糞悪ぃ)
それに気づかなかった自分もだが、あのクリスマスの日、一緒に漫画を読みながら笑いあった結月が、この先、兄たちにいいように弄ばれるのかと思うと、とてもじゃないが冷静ではいられなかった。
だけど、結月は今日、神隠しにあう。
なら、ここに来ることは、絶対にない。
兄たちの愚行も、餅津木家の思惑も、何もかも全て結月が潰してくれるはずだ。
そう、あの執事と一緒に──
「冬弥、乾杯しようぜ!」
だが、そんな冬弥にむけて、春馬がグラスを差し出してきた。春馬は、何もかも上手くいくと思いこんでいるのだろう。だが、冬弥は、差し出されたグラスを、あっさり払い除けると
「しねーよ、乾杯なんて!」
そう言って、怒りのこもった眼差しを向けた。
結月に危害を加えようとしている相手と、仲良く乾杯なんてしたくもなかった。だが、その反抗的な弟の態度に、今度は兄たちが眉根を寄せる。
「おいおい、なに怒ってんだよ、冬弥」
「やめとけ、夏樹。コイツ、俺が、結月ちゃん貸してくれって言ってから、機嫌悪いんだよ」
「はは、マジかよ! お前、そんなに惚れてんの!」
「……っ」
まるで、小馬鹿にするような笑い声が響いて、冬弥はきつく唇を噛み締めた。
正直、少し前まで、自分もあちら側の人間だったのかと思うと
だが、どうしたって譲れないものがあった。
この兄達を敵に回してでも、絶対に、守らなきゃいけないもの──
「結月に、指一本でも触れてみろ。ぶっ殺すからな……!」
ハッキリとそう
「うわ。なんだよアレ、マジなやつじゃん」
「あーあー、でも、可哀想に。本気で好きになった子を、俺らに食われちまうなんて」
「いいんだよ、別に。冬弥は、俺らのオモチャなんだから」
だが、立ち去る冬弥の背後からは、尚も品のない声が響いていた。
ここでどれだけ虚勢をはっても、兄たちには全くひびかないのだろう。
だが、今は、笑ってればいい。
どの道、お前ら計画は丸つぶれだ。
せいぜい、楽しい夢を見てろよ。
数日後、その夢が、悪夢に転じるまで。
結月たちが、この計画を成功させれば、8年前からの餅津木家の企みも、全て水の泡と化すのだから──
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