第184話 不安
着々とクリスマスが迫りくる、ある日。
結月は休日、レオが別邸に行っているのいいことに、屋敷のキッチンに足を運んでいた。
本来、お嬢様が、このような場所に来ることはない。食べたいおやつは、たいていシェフが調理し、執事が届けてくれるからだ。
だが、今、結月がここにいる理由は、おやつが食べたかったからではなく……
「こんな感じかしら?」
厨房の中では、ブラウスの袖をまくりあげ、ピンク色のエプロンをつけた結月が、包丁片手にニンジンを切っていた。
なれない手つきで、ゆっくりと。そして、その危なっかしい姿を、愛理と恵美が心配そうに見つめていた。
「や、やりましたね、お嬢様! 見事、短冊切りができました!」
「ホント? できてる!」
「はい! ちゃんと短冊に見えます!」
「よかったー」
「お嬢様、次は大根ですよ。くれぐれも指を切らないでくださいね?」
お嬢様をヨイショする恵美に続き、愛理が大根を差し出しつつ、呼びかけた。
この美しいお嬢様の指に、切り傷一本でもつけようものなら、あの執事に何を言われるか分からない!
だが、それでも、愛理たちが注意をはらいながらも見届けているのは、結月の必死な思いが伝わったからだ。
駆け落ちする前に、少しでも料理や家事を覚えておきたい──と。
そして、それが、執事に負担をかけまいとする結月の優しさであることに、二人はすぐに気づいたから。
「ふぅ……それにしても、お料理って大変なのね。包丁を使うだけで、こんなに肩がこるとは思わなかったわ」
「あはは。それは、お嬢様が緊張してるからですよ」
「え、そうなの?」
「はい、怪我をしないように気も張っていますしね。それより、お嬢様が切ったこの野菜、今夜の"まかない"に使ってもいいですか? そうすれば、五十嵐さんも食べれますし」
「え、レオも?」
愛理の話に、結月は、目の前のいびつな野菜たちを見つめて、じっと考えこんだ。
こんな野菜を、レオに出していいものか?
初めて切った野菜たちは、決して見栄えの良いものではなく、大きさや厚さが、全てバラバラで、まるで子供が切ったみたいだった。
「こ、こんなのレオにだしたら、怒られないかしら?」
「大丈夫ですよ。そこそこ綺麗に切れてますし。恵美と大差ないですよ」
「ちょ、ちょっと、愛理さん! 初心者のお嬢様と、メイド歴二年の私を同レベルにするのは、さすがに!?」
「えー、でも恵美、かなり不器用じゃん」
「前よりは、上達しましたよ!!」
「ふふ」
厨房の中で、漫才のようなやりとりを繰り広げる恵美たちを見つめながら、結月はクスクスと頬をゆるめた。
こうして、使用人たちに料理を教わりながら、笑いあう日が来るなんて、少し前までは想像もしていなかった。
幼い頃は、キッチンに行くと「お嬢様が、このようなところに来てはいけません」とよく注意を受けた。だからか、子猫を隠れて飼っていた時も、ミルクをこっそり持ち出すのに、苦労したものだ。
だが、あれから8年がたち、今自分は、この屋敷を出るために家事を学んでいる。
生きていくための術を、支えあうための術を、こうして、教えてもらっている。
それは、まだ小さな一歩でしかないけれど、ひとつひとつ新しいことを覚えるたびに、結月は、あの日のことを思い出した。
レオが、熱をだして寝込んでしまった日のこと。
あの時、自分は何もできなかった。ただ見ているだけで、看病の仕方一つ、わからなかった。
だからこそ、ここで覚えられることは、すべて覚えておきたい。
もしも、またレオが寝込んでしまった時に、同じ失態を繰りかえさないように――…
「しかし、お嬢様が家事を教えてくれって言ってきた時は驚きました。しかも、五十嵐さんには内緒でなんて!」
すると、そこにまた恵美が口を挟んだ。
結月が、恵美や愛理に頼んだのは、あの話し合いの後だ。
結月が屋敷にいて、レオが別館に行っている間に、できる限りの家事を教えてほしいと、結月はこっこり恵美に頼みこんできた。
「だって、仕方ないじゃない。レオに言ったら、ダメって言われるに決まってるもの」
「たしかに、五十嵐君は、ダメっていいそうですね~」
「まぁ、あれほど、お嬢様のこと大事にしている方はいませんよね」
「それにしたって、過保護すぎるわ。だから、私も一人でできるんだって、レオに見せつけてあげなきゃ!」
目の前の大根を見つめながら、結月は「よし!」と、意気込んだ。
レオの負担を軽くすのもだが、世間知らずだと、これ以上馬鹿にされないためにも、しっかり自立した女性にならなくては!
「そうですね。お嬢様なら、きっとすぐに覚えますよ! 駆け落ちしたあとは、じっくり時間もありますしね」
「そうね、頑張るわ!」
「あ、でも、その前に、クリスマスが来ますが、本当に餅津木家に行かれるのですか?」
だが、次に放たれた愛理の言葉に、場の空気が一変する。
計画は順調で、今は、とても穏やかな日々をすごせている。だが、クリスマスまで、残り一週間。デートの期日が迫るせいか、やはり不安は隠せない。
「やっぱり、行くのやめたほうが。熱が出たとでもいって、嘘をつけばいいわけですし」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃないですよ! 好きでもない男と、一晩同じ部屋で過ごすんですよ!」
「そうですよ! それに、あっちは絶対、そのつもりです!」
愛理と恵美が、声を荒らげる。
それは、同じ女性だからこそかもしれない。好きでもない男と、一夜を共にすることが、どれほど恐ろしいことか、女性があるが故に、簡単に想像できてしまうから。
だが、結月は、そんな二人を見つめ、申し訳なさそうに答えた。
「そうね……確かに無事に戻ってこれる保証は全くないわ。でも、そうなった時の覚悟も、ちゃんとできてるの」
「覚悟って……っ」
「今まで一切、外泊を許さなかったお父様が、今回はお許しになったの。餅津木家に行って、何を望まれているかは、ちゃんと理解しているわ。だから冬弥さんも、きっと、そのつもりでしょうね」
「ッ、だったら、絶対に行くべきではありません!」
「えぇ、でも……私はなんとしても、この計画を成功させたいの」
「……っ」
覚悟を決めた表情で佇む結月の姿は、とても穏やかで、まるで女神のように神々しかった。
確かに、行かなければ、勘づかれる可能性がある。お嬢様は、結婚を嫌がっているのではないかと。でも――
「あの、五十嵐さんは、なんと……っ」
「レオなら、ちゃんと分かってくれてるわ。だから、そんな顔しないで。私なら、大丈夫! それより、あさっては、私たちが暮らす予定のお家に、お片付けにいってくれるのでしょ! 気をつけて行ってきてね!」
二人の不安をかき消すように、結月が明るく笑いかけた。
もちろん、それで、二人の不安がきえることないが、それでも、結月の気持ちをくみ取ったのか、二人は、また明るい話題へと話を変える。
「はい。その日は、私と恵美は不在にしますが、みんなで綺麗にして、すぐに住める状態にしてきますからね!」
「えぇ、助かるわ」
「それより、お嬢様。そろそろ大根切らないと、五十嵐さん、戻って来ちゃいますよ!」
「あ! そうね!」
その言葉に、結月は再び包丁を手にすると、呼吸を整え、また野菜を切り始めたのだった。
✣
✣
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そして、その日の夕食時。
「このニンジン、誰が切ったのですか?」
使用人たちが、まかないを食すそのタイミングで、レオがそんなことを言いだした。
味噌汁の中に浮かぶ、いびつなニンジンをみて、レオが首を傾げる。
まさか、お嬢様が切ったとバレたのか!?
恵美と愛理は、内心慌てつつ問いかけた。
「ど、どうしの、いきなり?」
「いえ、いつもと切り方が違うというか」
「そ、そんな、気のせいですよ!!」
「そうでしょうか? どう見ても、お二人の切り方では」
「あー! それは、あれです! 今日は私、左手で切ってみたんです!!」
「左で? また、なんで?」
「な、いや、その……未知なる体験をしてみたくなりまして」
「…………」
未知なる体験──恵美が言った苦し紛れの言い訳を聞いて、執事は暫く黙り込んだ。
だが、その後、ニッコリ微笑んだあと
「そうなんですね。てっきりお嬢様が切ったのかと」
「「!!?」」
爽やかに言ってのけた執事に、二人はびくッと肩を弾ませた!
なんということだ!!
よもや、初めて切ったお嬢様の野菜を見抜くとは!?
(バレる!! これは、いつか絶対バレる!!)
(もう二度と、お嬢様の切った食材は出さないようにしないと!)
せっかく、お嬢様が頑張っているのに!!
だが、そのずば抜けた洞察力と、お嬢様への並々ならぬ愛を実感し、その日、恵美と愛理は、レオにたいして、軽い恐怖をおぼえたとか?
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