第177話 捨て去る者


「籍を入れて、君は『五十嵐いがらし 結月ゆづき』になる。この屋敷を──は、出来た?」


「……っ」


 阿須加家を捨てる覚悟──その言葉と『五十嵐』という名に、結月は息を呑んだ。


 ずっと、変わることがないと思っていた阿須加の名前。それを捨て、自分は彼だけのものになるのだと、その五十嵐の名から実感する。


 だが、ずっと、望んでいたことだった。

 好きな人の側で、自由な人生を生きる。


 それなのに、いざ、それが目の前にさし迫れば、不思議と寂しさを感じた。


 この名を捨てれば、もう、生まれ育ったこの屋敷には、二度と戻ってこれないから……


「……ねぇ、レオ」


 すると、結月は、手にした箱を見つめながら、静かに話はじめた。


「私、ずっとこの屋敷から、出たいと思っていたわ。でも、この屋敷が嫌いなわけじゃなかったの。むしろ、ここで、みんなと暮らしていた時間は、とてもかけがえのないものだった」


 みんなが、私に優しくしてくれた。


 だけど、それは私が、だから──ずっと、そう思っていた。


 でも、今日、斎藤や矢野たちの話を聞いて、決して、ではなかったのだとわかった。


 確かに、自分はお嬢様で、彼らの主人だった。だけど、そんな私を、彼らは娘のように、家族のように


 ──心から、愛してくれていたのだと。



「ありがとう、レオ……私の大切な家族の未来を守ってくれて、おかげで私は、安心して、この屋敷を出ていくことができる。それに覚悟なら、もうとっくに出来てるわ。レオが、また迎えに来ると誓ってくれた、あの日に」


 夢を誓い

 愛を誓い

 共に生きると約束した、あの日


 教会の中で、初めての口付けを捧げた、あの瞬間、全てを覚悟した。


 この世界で、もっとも自分を愛してくれる彼と、この先の未来を生きようと──…


「でも……やっぱり、私には、まだ覚悟が足りてないのかしら……どうしても、親を捨てることに、まだ躊躇いがあるの」


「………」


「私が、いなくなったあと、あの二人は、どうなっちゃうのかな?とか……娘が、駆け落ちなんてしたら、きっといい笑い者だろうなとか……あんなに虐げられてきて、あの二人にとって、私は、ただの『物』でしかないのに……それなのに、未だに思うの。できるなら、になりたかったって……っ」


 うつむく結月は、目に涙を浮かべ、"変えられなかった現実"に、心を傷めた。


 幼い日から、何度と歩み寄ろうとする結月を、あいつらは幾度となく傷つけてきた。


 変わらない日々は

 変えられなかった家族の形は


 けっきょく、最後まで変わることはなく。


 そして、その形は、この屋敷にいる限り、未来永劫、続くのだとわかった。


 だが、それでも、親を思う子の心は、どれだけ傷つけられても、いつか、分かり合える日を夢見てしまう。


 自分の親を、信じようとしてしまう。


 だからこそ、レオはここに来た。


 優しい結月には、きっと、捨てられないとおもったから……


「いいよ。その想いは捨てなくても……あんな親でも、結月にとっては、大切な両親なんだから」


 決して否定することなく、レオは、結月を抱きしめ、その心に寄り添った。


 捨て去る者への想いを

 唯一無二の親への想いを

 そして、親不孝な娘だと責める子の想いを


 根こそぎ受け止め、また言葉を紡ぐ。


「でも、もういい。結月は、よく頑張った。18年の間、ずっとずっと歩み寄ろうとしてきたんだ。それなのに、答えようとしなかったのは、あいつらの方。だから、もう頑張らなくていい。もう傷つかなくていい。それに、結月は拐われるんだよ、俺に。悪いのは全部──俺のせいにすればいい」


 全ては、お嬢様に恋をした、この強欲な執事のせいにすればいい。


 だって、君は、何も悪くないんだから――…


 だが、そんなレオを見つめ、結月は悲しげに目を細めた。


「なに言ってるの……やっぱりレオは、私に甘すぎるわ。これは私が選んだことよ。私が、。何もかも捨てて、あなたと共に生きる道を選んだ。それに、前にも言ったでしょ。『私をさらって』って。執事であるあなたは、ご主人様の命令に従うだけよ」


「……ご主人様か」


「なに、その顔?」


「いや、俺は、こんなにも可愛いご主人様を持って、幸せだよ」


 近づき、頬に軽くキスを落とせば、結月は、くすぐったそうに、また頬をゆるめた。


「ごめんなさい。弱音を吐いてしまって」


「いいよ。どんな愚痴でも聞くと、前にも言っただろ」


「うん。ありがとう……もう、大丈夫。覚悟は出来てるわ。それに、いつかは捨てなくてはならないと思っていたの。私が、ここにいる限り、あの二人は変わらないから。だから、私がここから居なくなることで、あの二人には気づいて欲しいの。自分たちが、これまで、どれだけの人の心を傷つけてきたか……」


 この先、自分にできることがあるとするなら、それは、あの二人に「気付き」を与えること。

 

 『娘』を失って、あれだけ執着していた『阿須加の血』を失って、あの二人は何を思うだろう。


 少しは、悔いてくれるだろうか?

 少しは、変わってくれるだろうか?


 もし、変えることができるなら──…


「あのね、レオ。一つ、提案があるの」


「提案?」


「うん。無理なお願いかもしれない。だから、どうするかは、レオに委ねるわ」


 すると、その後、結月が話した提案に、レオはおもむろに眉をひそめた。


「……正気か?」


「うん……ごめん、怒った?」


「いや、怒ってはいないけど。でも、そんな話、誰が信じるんだ」


「そうね、誰も信じないかもしれない。だから、どうするかは、レオが決めて」


 結月の言葉に、レオは顎に手を当て考え込む。

 

 ルイといい、結月といい、次から次へと、無理難題を吹っ掛ける。

 

 だが、それを叶えることで、結月が心置きなく、この屋敷を捨てることができるのなら……


「畏まりました。それが、お嬢様の御望みとあらば――」


 あえて執事らしく振るまえば、レオは結月の手を取り、まるで、忠誠を誓うように、その手の甲に口づけた。




 決行の日は、12月31日。


 除夜の鐘が鳴り、人々が神様の元へと集う、その終わりと始まりの夜――


 この屋敷は、文字通り、主人を失い、従者を失い『空っぽ』になる。


 そう、まるで





 ”神隠し”にでもあったかのように――…









 そして、その後レオは、結月も元を離れ、すぐさま食堂に向かった。……のだが


「五十嵐さん! どうしたんですか!? 戻ってくるの、早すぎませんか!?」


「そうだよ! てっきり、今日はもう戻っこないと思ってたのに!!」


「まだ、いちゃいちゃしてきてよかったんですよ!?」


「いや、あの……変な気は使わないでください」


 いつもの時間とわからない時間に戻ってきた執事に、愛理と恵美が、夕食を食べながら驚けば、レオは苦笑いを浮かべた。


 使になったはいいが『いちゃいちゃして来い』などと言われると、逆にやりづらい!!


(ルイの言った通り、予定を早めたのは正解だったな)


 この状態が、数ヶ月もなんて、ちょっと耐えられない。レオは、あくまでも執事として振る舞いつつも、軽く恥ずかしくなったとか?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る