第145話 レオ


「そう、愛理さん、入籍日決まったのね!」


 一方、矢野たちが尋ねてきたと知らない結月は、テーブルを挟み、恵美と談笑していた。


 ちょうど勉強中だったのたが、ノートと参考書を一旦閉じると、結月は、恵美が差し出してきたアップルティを飲みながら楽しそうに微笑む。


「愛理さんの彼氏さんは、いつが誕生日なの?」


「1月28日だそうです。愛理さんは、その前日に寿退社することになりました」


「そう、少し寂しいけど、おめでたい話しね」


「はい! でも、愛理さんも驚いていましたよ。自分の誕生日には喧嘩して別れたのに、まさか二ヶ月後の彼氏の誕生日に結婚するなんてーって」


「ふふ、確かにそうね。人生って、何が起こるかわからないわ」


 くすくすと笑いながら、会話に花を咲かせる。だが、まさか愛理と谷崎の復縁を巡り、影ながら執事とその友人が奮闘していたなんて、結月も恵美は、知る由もない。


「愛理さんの誕生日は、11月10日だったわね。確かに、その頃の愛理さんは、少し元気がなかったけど、無事に寄りをもどせてよかったわ」


「本当ですよ! 彼氏が押しかけてきた時はどうなるかと思いましたが!……しかし、お嬢様は相変わらずですね。使用人の誕生日をわざわざ覚えてくださってるなんて」


「あら、みんなも、私の誕生日を覚えていて、お祝いしてくれるでしょ? だから、私もちゃんとお祝いしたいし……恵美さんの誕生日は3月30日わね」


「はい、そうです!」


「あ……!」


 だが、その瞬間、結月はあることに気づいた。


「どうなさいました?」


「あ、その……五十嵐の誕生日は、いつなのかしら?」


 ふと、執事の誕生日を知らないことに気づいて、結月は申し訳なさそうに顔をしかめた。


 執事が来てから、なにかしら目まぐるしかった。いきなり使用人が二人も辞めてしまい、その上、婚約者まで現れた。


 そのせいか、誕生日を聞くのをすっかり忘れていた。


(好きな人の誕生日を知らないなんて……さすがに彼女失格なんじゃ)


 これはまずい──と表情を硬くすれば、それを見て、恵美がまた話しかけてきた。


「お嬢様、五十嵐さんの誕生日、ご存知なかったのですね」


「うん、聞くタイミングがなくて……恵美さん、知ってる?」


「知ってますよ。でも、まさかお嬢様が知らないなんて思いませんでした」


「え?」


「だって、五十嵐さんの誕生日は、


「──え?」


 瞬間、結月は目を見開く。


「同じ……日?」


「はい。五十嵐さんの誕生日は、お嬢様と同じ4月14日です。だから、てっきり知っているものとばかり……でも、考えてみれば、屋敷の主人と誕生日が一緒だなんて、使用人からすれば少し話しづらいですよね?」


「…………」


「あ、お嬢様、おかわりは?」


「え……あ、はい。頂くわ」


 空になったティーカップを見て、恵美がといかければ、結月、慌ててカップを差し出した。


 陶器のオシャレなカップに、茜色アップルティーが注がれていく。その後、恵美は、再度カップを受け皿にのせ、結月の前に差し出してきた。


「では、お嬢様。お勉強を中断させてしまい申し訳ありませんでした。あとは、どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」


「え、えぇ……ありがとう」


 にこやかに笑う恵美にお礼を言うと、恵美が部屋から出ていったあと、結月は呆然とティーカップを見つめた。


 テーブルの上に置かれたアップルティーの中には、動揺する結月の顔が映っていた。


 鼓動が早い。

 目の奥が熱くなる。


「同じ……誕生日……?」


 そして、ポツリと呟いた瞬間、手もとに何かが流れ落ちた。


 頬を伝わって流れたそれが、涙だと分かった瞬間、脳裏には、ある記憶が鮮明に飛び込んできた。



 ✣✣✣



『あのね、モチヅキ君、明日は、会えないの』


 それは、いつか見た懐かしい夢の記憶。

 モチヅキ君との──8年前の記憶。


『そうなんだ……残念』


『……ごめんね』


『何か用事?』


『うん、明日は、私の誕生日なの』


『え? 誕生日』


『うん。あ、でも誕生日っていっても、お母様たちは来ないし、白木さんたちが祝ってくれるだけなの。でも、外で遊ぶのは無理だろうから』


『いいよ、気にしなくて、祝ってくれる人がいるのは幸せなことだよ』


『そうだよね。あ、そういえばモチヅキ君の誕生日はいつなの?』


『俺? 俺の誕生日は───


『……え?』


『俺の誕生日も、明日の4月14日。でも、だからって気にする必要はないよ……それと、俺もうすぐ名字が変わると思う』


『え? 苗字が変わちゃうの? どうして……?』


『引き取り先がきまりそうって……だから、これからはじゃなく、下の名前で呼んで』


『下の名前』


『うん、って呼んで──』




 ✣✣✣



「………っ」


 指先が震えた。


 その記憶は、ゆっくりとゆっくりと心に染み込んで、結月は、震える手で自分の頭を押さえた。


 それは、忘れていた記憶だった。


 ずっとずっと、気になっていた、モチヅキくんとの記憶。


「ぁ……望、月……くん……?」


 瞬間、また涙が頬を伝って、結月は、執事の姿を思い出した。


『結月』


 そう言って、自分の名を呼ぶ五十嵐の声が、あの日の望月君と重なった。


 今よりも少し高い声で、だけど、今と変わらない優しい声。


「ぁ……っ」


 心が、震えた。

 胸が熱くなれば、涙は、とめどなく溢れた。



 ──思い出した。




 ずっとずっと



 8年も前から思い続けてきた




 私の、大切な人──





「望月……レオ……っ」







 ✣



 ✣



 ✣



「そうですか。久しぶりに、顔を見れて安心しました」


 尋ねてきた斎藤と矢野を屋敷の中に招き入れると、愛理も交え、レオは久しぶりの再会に、会話を弾ませていた。


 どうやら、二人は、辞めたあとの屋敷の様子が気になり尋ねてきたらしい。


 斎藤たちは、体調を気遣ってくれたり、分からないことなどないかとアドバイスをしてくれたり、色々と気にかけてくれた。


「わぁ、斎藤さん、矢野さん!」


 その後、結月の元から戻ってきた恵美も加われば、5人になったその場の空気は、更に賑やかになった。


 こうして辞めた後も、何かと気にかけ、様子を見に来てくれる。それを思えば、なんともありがたいことだった。


 だが、だからと言って弱音など吐けず、レオは普段以上に、にこやかにふるまう。


「今日はありがとうございます。なにより、二人ともお元気そうで」


「まぁ、私たちはね。しかし、冨樫くんが寿退社とは驚いたなー」


「もう、源さんどういう意味!?」


「あはは、結婚したいと言っていたのに、なかなかする気配がなかったからね。しかし、本当に大丈夫なのかい? 冨樫くんも辞めてしまったら、使用人が2人しかいなくなってしまうのに」


「大丈夫ですよ。お嬢様は、そこまで手のかからない方ですし」


「そうだが……お嬢様がというよりは、屋敷の管理の方が」


 その後、何度と「大丈夫」というが、斎藤たちの不安は拭えないようだった。だが、これ以上、根掘り葉掘り聞かれても困る。


 レオは、早いところ結月に会わせて、お帰り願おうと、手短に話を済ませることにした。


「斎藤さん、矢野さん。今からお嬢様をお連れしますので、応接室に」


「レオ!」


「!?」


 だが、その時だった。

 屋敷内に突如響いたのは、馴染みのある声。


 そして、その声に、その場にいた全員が、階段の上を見上げれば、そこには、この屋敷のお嬢様である、結月がいた。


「ぅ……っ」


 頬を濡らし、息を切らしながら、こちらを見つめる結月の姿。


 その予想だにさない姿に、使用人たちは息を飲み、レオもまた瞠目する。


「え? お嬢……」

「レオ……ッ!」


 その瞬間、弾かれたように階段を駆けおりてきたかと思えば、結月は、そのままレオの胸に飛び込んだ。


 とっさのことに、何がおこったのか、よく分からなかった。


 結月に抱きつかれている。

 それも、泣きながら、俺の名前を呼んで……


(思い……出した?)


 だが、たった一言『レオ』呼ばれただけで、レオは、なにもかも理解した。


 いや、理解するには十分だった。


 結月が、呼んでくれた。

 俺の名前を──……


「……っ」


 喜びと安堵で、胸が高鳴り、レオは衝動的に、手を伸ばした。


 だが、この場には、他にも人がいた。

 この関係を、絶対に知られてはいけない人たち。


 もし、ここで抱きしめたりしたら、もう言い逃れなんてできない。


(ッ……ダメだ。抱きしめたりしたら)


 執事として振る舞わなければ、全てが水の泡になる。


 これまでの努力も

 この先の計画も


 何もかも──


 だけど……っ


「ぅ、うぅ……ごめ…ん……ごめんね……レオ……っ」


 そう言って、泣きながら謝りつづける結月を見れば、抱きしめ返さないなんて、そんな選択か出来るはずがなく


「結月……っ」


 そう言って名を呼べば、結月の瞳から、また涙が流れ落ちたのを見た瞬間、レオは、結月の身体を抱きしめた。


 背に腕を回し、きつくきつく抱きしめれば、背中に回わされた結月の手に、その事実をより深く実感する。


 やっと、思い出してくれた。

 やっと、帰ってきてくれた。


 もう、二度と思い出せないと諦めていた、あの日の、結月が。


 俺の、愛しい愛しい、女の子が──…



「レオ……っ」

「……っ」


 再度、名前を呼ばれれば、レオはその懐かしい声に、そっと目を閉じた。


 思い出すのは、8年前のこと。


 あの日『夢』を誓いあった、二人の────『約束』の記憶。








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