第十五章 お嬢様の記憶

第139話 朧月


「そう、愛理さんも辞めてしまうのね……」


 それから数日がたち、12月に入った頃。結月は就寝する前に、愛理が退職する話を正式に聞かされていた。


 斎藤と矢野に続き、今度は愛理まで辞めてしまう。家族のように慕っていた人達が次々といなくなることに、結月は、どことなく落ち込んだ表情をしていた。


「寂しいですか?」


「寂しいわ……でも、愛理さん、結婚するんでしょ? なら、こんなに素晴しいことはないわ」


 落ち込みつつも、結婚というめでたい話に、結月は嬉しそうに顔をほころばせた。


 それは、斎藤や矢野の時とは、また違った反応で、悲しませてしまうと不安だったレオも、ホッと胸をなでおろす。


「冨樫は、年末年始まで働いて、1月頃退職する予定です」


「そう。じゃぁ、もう暫く愛理さんの手料理を食べられるのね」


 ベッドに腰かけた結月が、名残惜しそうに、そう言った。


 愛理が、この屋敷に来て5年。

 まだ、若いコックだったが、腕は確かなもので、愛理は結月の好みにあわせて、多種多様な料理を作ってくれた。


 それは、たった一人で食べる寂しい食事を、不思議と明るくしてくれるもので、それを思えば、自分が、どれだけ恵まれていたのかを、改めて実感する。


「愛理さんが手がけたお店なら、きっと素敵なお店になるわね……あ、でも、愛理さんがやめた後、この屋敷の食事はどうなるの?」


「……」


 だが、その後、結月は、また不安そうにレオを見つめた。


 そして、その言葉に、レオは躊躇する。


 この先この屋敷に、新しい使用人はこない。……となれば、コックの仕事も、この屋敷にいるが引き継ぐことになる。


 だが、ここで誤魔化しても、いずれは分かること。そう思うと、レオは結月の目を見つめ、また笑いかけた。


「ご安心ください。冨樫の仕事は、私が全て引き継ぎます。ですから、食事のことは何の心配も」


「な、なに言ってるの! ただでさえ、斎藤と矢野の仕事を引き継いでるのに、これ以上、仕事を増やしたりしたら」


「大丈夫ですよ」


「大丈夫なわけ……!」


「本当に大丈夫だから、もう黙って」


「ッ……ん」


 必死に訴える結月の頬に手を触れると、レオは、そのまま結月の唇に口付けた。


 この時間、愛理と恵美は、全ての業務を終え、使用人の部屋がある別棟にいる。


 邪魔が入らないのを分かっているのか、レオは、いつもより深く口内に入り込むと、まるで呼吸を乱すかのように、執拗にキスを繰り返した。


 こうして、息をつく間を与えなければ、いずれ結月は、反論どころではなくなる。


 それを見越してなのか、何度と刺激的なキスを送るのだが、それでも結月は、わずかな呼吸の合間をぬって、負けじと話しかけてきた。


「……っ、いがらし……まだ、話……終わってな……っ」


「あまり喋ると苦しくなりますよ。それに、私の体をいたわってくださるというなら、もっと、ご褒美をください」


「ご……ほう……び?」


「はい。お嬢様とのキスなら、他のどんな薬よりも効果がありそうです」


「ぁ……んッ」


 そう言って、また口付ければ、その反動で、二人同時にベッドの上に倒れ込んだ。


 スプリングが軋む音と同時に、覆いかぶさり、組み敷く形になったからか、レオは、先程よりも口付けやすくなったと、意地悪そうな笑みを浮かべる。


 その後、深くベッドに沈みこんだ結月に、よりいっそう深く口付けた。


 言葉を発する余裕すらなくなるほどの、甘く激しい口付け。


 そしてそれを、しばらく繰り返していると、案の定キスに不慣れは結月は、あっという間にレオのペースに飲み込まれてしまい、頬を染めながら、苦しそうな呼吸をはじめた。


「ん、はぁ……っ」


(このまま、クタクタになるまで、口付けてしまおう)


 そう思って、レオは執拗にキスの雨を降らせ、結月を翻弄していく。


 執事の体調のことなんて、考えられなくなるように……何度も何度もキスをして、結月の思考を奪っていく。


 だが、そんな中、結月は、レオの首元に腕を伸ばすと、次の瞬間、レオの身体にギュッときつく抱きついてきた。


「話を……そらさないで……っ」

「ッ……!」


 不意をつかれ、密着した身体が熱を持つと、同時に聞こえた声に、レオは目を見開いた。


「本当に……心配してるの……これ以上、無理して……五十嵐に、もしもの事が、あったら……っ」


「…………」


 震えた声が、鼓膜を通じて脳内に入り込む。


 本気で、心配してる。

 結月が、俺の事を──…


「ごめん……でも、今は無理をしなきゃいけない時なんだよ」


「……っ」


 だが、そんな結月の頬をなでると、レオは嘘偽りなく答えた。


 自分でも、無理をしている自覚はある。

 だけど、もう時間がない。


 あと数ヶ月したら、自分たちは、引き裂かれてしまう。


 もう、お嬢様と執事ですら、いられなくなってしまう。


 そう思えば、思うほど──焦る自分がいる。


「どうか、わかって……これは、俺が望んでやってることだから」


「……望んでって……明らかな、過重労働なのよ」


「いいんだよ。それに近いうち、この屋敷の使用人は、全て追い出す」


「え?」


「元からそのつもりで、この屋敷にきたんだ。そのために、執事の仕事だけじゃなく、屋敷で求められる技術は全て身につけてきた。斉藤さんや矢野さんを、辞めるよう仕向けたのも、俺だよ。だから、使用人の仕事を引き継ぐのも、全て計画通り──だから、結月は何も心配しなくていい。あとは、全部俺がやるから……」


「……っ」


 そう言って、髪を撫でたあと、レオはまた結月に口付けた。


 心配しなくていいと、俺は平気だからと、訴えかけるように、優しく、そっと……


 だけど、そんなレオに、結月は納得していないような顔をしていた。





 ✣


 ✣


 ✣





 その後、深夜2時がすぎた頃、結月は一人目を覚ました。


 寒い中、ベッドから出ると、薄手の毛布を羽織り、自分の部屋から出る。


 二階の廊下を進み、突き当たりにある窓の前に立つと、そこから使用人たちがいる別棟の方を見つめた。


 埋まっている部屋は、三部屋。


 二部屋は、電気がきえているが、一部屋だけ、まだ明るかった。


(五十嵐……まだ、起きてるのかしら?)


 執事は、自分の前では、いつも変わらない姿でいる。平気そうに振舞ってる。


 だけど、最近よくレオが、別館に呼び出されているのを、結月は知っていた。


『休んでいる』なんていいながら、休めていない。


「どうして、私なんかのために……そこまで、してくれるの?」


 遠く、愛しい人の部屋をみつめながら、結月は呟いた。


 自分は、五十嵐のことを、なにも覚えていない。その上、思い出せもしない。


 なんで、そんな薄情な女のために、そこまでできるのか?


「……五十嵐は、私の……どこを好きになったの?」


 冷たいガラス窓に振れて、結月は悲しそうに呟いた。


 就寝前、何度と口付けられた唇には、今もまだ、彼の感触が残ってる。


 心配する私を、五十嵐は、いつもキスをして黙らせる。


 心配することですら、許してくれない。


 大丈夫といって、無理ばかりで



 だけど、それも全部





 私のため──…




(……使用人を、全部追い出すって言ってた)



 ならば、近いうちに、恵美さんも、いなくなる。


 でも、それも、私のためなのだろう。


 私が、この屋敷にから、安心して出て行けるように──…


「全部、私のため……っ」


 私のために、五十嵐は執事になって、戻ってきてくれた。


 だけど、どうして、そうまでして、私を愛してくれるの?


 知りたい。

 思い出したい。


 五十嵐のこと──


 あなたと出会った時のことも

 あなたを、好きになった時のことも


 そして、あなたと初めて


 キスをした時のことも──…



 全部、全部、思い出したい。



 でも、五十嵐は教えてくれない。


 無理に思い出さなくていいと、いつも、甘やかしてばかりで──…



「……っ」


 瞬間、結月はくるりと踵を返すと、また自分の部屋へと戻った。


 部屋のナイトライトだけつけると、ほのかに明かりが灯る中、結月は、自分の机の上に、手がかりになりそうなものを、次々と並べていく。


 8年前の記憶に、つながりそうなもの。


 五十嵐がきてから、何かしら、疑問や違和感を感じたもの。


 幼い頃から読んでいた植物図鑑をとりだすと、結月は『ヤマユリの花』のページを開いた。


 他にもある。


 記憶をなくしたあと、机の中でみつけた『空っぽの箱』


 そして、なぜか『ルナ』と名付けてしまったぬいぐるみ。


 そして、夢の中にでてきた『モチヅキくん』


 あとは……?



「思い出さなきゃ……っ」


 8年前、何があったのか?

 空白の時間に、私は何をしていたのか?


「思い、出して……っ」


 お願い──きっと、その記憶は、私にとって、忘れたくなかった、大切な記憶だから。



「待っててね、五十嵐。必ず、思い出すから……っ」


 12月に入った、その日の月は、ひどく朧気だった。


 それは、まるで、結月の記憶のように──霞がかった上弦の月。



 そして、それは、結月が高校を卒業するまで、残り"3ヶ月"を切った


 寒い寒い、夜のことだった。




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