第112話 密室の二人


『教えてあげようか? 君の知らない五十嵐レオの全てを』


 全て──その言葉に結月は躊躇する。


 あの執事の、好きな人の全て。勿論、知りたいという気持ちもあった。だけど、同時に、知るのが怖いという気持ちもあって


「私は……っ」


 声を発し、その後また躊躇する。でも、知りたいなら、チャンスは、今しかなくて


「あの、ルイさんは、五十嵐の……っ」


 ──ガチャン!!


「きゃ!」

「ッ──危ない!」


 瞬間、結月がテーブルにぶつかり、カップが床に転がり落ちた。


 落ちたカップは、音をたて砕け散り、絨毯の上にちらばる。だが、結月は、間一髪ルイに抱き寄せられたため、お茶がかかることも、割れた破片で傷つくことなかった。


(……あれ?)


 だが、その後、ルイの胸の中にすっぽり収まった結月は、ふと、ある疑問を抱く。


 腕の中で感じるのは、清潔感のある花のような香り。それは確かに、女性らしい香りだった。


 だが、結月が触れたルイの胸元、自分のモノよりも大きいだろう、その胸の感触が、明らかにおかしい。


 普通なら柔らかいはず。それなのに、どことなく硬く感じた。なにより、先ほど一瞬だけ聞こえた声は、まるで男性の声のような声で……


『結月ちゃん。大丈夫? 怪我してない?』

「え、あ。はい……っ」


 だが、その後、改めてルイに声をかけられ、結月は顔を上げるが、ルイは、先ほどと全く変わらなかった。


(……女性よね?)


 何を考えているのだろう。こんなに綺麗なルイさんが「男性」なはずないのに?


『カップ、割れちゃったね?』

「あ、そうだわ、大変!」


 だが、その思考も、ルイの言葉によってあっさり切り替わった。見つめた先には、割れたカップ。結月は慌ててルイから離れると、そのカップを片付けようと身をかがめる。


『あ、ダメだよ。怪我しちゃう』

「……っ」


 だが、破片に直接触れようとした手を、ルイが突然掴んだ。

 自分よりも、しっかりしたルイの手。その感覚に軽くドキッとしてルイを見上げれば、ルイはすぐさま結月から手を離し、その後、ハンカチを取り出し割れたカップを片付け始めた。


「ルイさん。私がやります!」


『いいよ。結月ちゃんが、怪我したら大変だし』


「でも、お客様にそんなこと……」


『大丈夫大丈夫。お客だなんて思わないで。私はレオの彼女だし、同じように召使と思ってくれればいいから……それに、結月ちゃんが怪我したら、レオが怒られちゃうんでしょ?』


「……っ」


 その言葉に、結月は押し黙った。


 確かに、その通りだ。自分が怪我をしたら、あの両親から怒られ、その責任を負わされるのは、間違いなく執事の五十嵐だ。


「ごめんなさい……っ」


『謝らなくていいよ』


「でも……」


『結月ちゃんは、この屋敷のお嬢様なんだし、お嬢様らしくしててよ。とりあえず、私はこれを片付けて代わりのカップ貰ってくるから、あっちの離れた席に座ってまってて』


 そう言って、ルイはまたにっこり笑うと、お盆の上に割れたカップの破片をのせ、そそくさと部屋から出ていった。


 そして、その後一人になった結月は、目を伏せ、自分の不甲斐なさを憂う。


(本当に……ダメね、私は)


 割れたカップ一つ、まともに片付けられない。

 それに比べて、ルイさんは──




 ✣


 ✣


 ✣




(はぁー、危なかった……っ)


 その後、赤い絨毯が敷かれた廊下を進みながら、ルイは冷や汗をかいていた。


 あの執事は、あのお嬢様に、ひどくご執心なのだ。もし怪我なんてさせたら、何を言われるかわからない。

 なにより女の子の身体に傷がつくのは、ルイ自身、なにがなんでも避けたいことだった。


(そういえば……さっき、とっさに抱き寄せちゃったけど、大丈夫だよね?)


 男とバレていないだろうか?それも心配だが、なによりも反省すべきなのは、友人の"恋人"に、手を触れてしまったこと。


 いくら怪我を阻止するためとはいえ、少しばかり罪悪感を覚えた。


(レオには口が裂けても言えないな)


 とルイは深めの溜め息を吐くと、その先で丁度、執務室と書かれたプレートが見えてきた。


『あ、レオ!』


 こっそり扉を開けて中を覗き見れば、思った通り、その中にはレオがいた。


 机に向かってペンを走らせていたレオ。その姿を見るなりルイが声をかければ、レオがゆっくり視線をあげる。


「ルイ、どうし」

「ごめーん。カップ割っちゃった!」


 だが、どうした?と声をかける間もなく、ニッコリと反省の色すらない笑顔が返ってきて、レオはピクリと眉を引くつかせた。


「割っちゃったって、何してるんだ。結月に、怪我させてないだろうな」


「させてないよ。カップも僕が片付けてきたし」


「俺を、呼べばよかっただろ」


「別に、執事さんの手を煩わせる程でもないかなって」


「……まぁいい。すぐに別の部屋を用意する」


「それは助かる。あらかた破片は片付けたんだけど、細かい欠片がカーペットの隙間にまぎれこんでるかもしれないし」


 ルイが割れたカップが乗ったお盆を差し出せば、レオは受け取り、またルイを見つめる。


「お前は、怪我してないか」


「うん。大丈夫」


「そうか。あと、ひとつ言い忘れていたが……


「…………」


 だが、その瞬間、思いもよらぬ言葉が返ってきて、ルイは、おや?と首を傾げた。


 さっき、レオの事をあらかた結月に暴露しようかと思っていたルイ。勿論、レオにはなんの承諾も得てないが、まさかこのタイミングで釘を刺されるとは……


『酷ーい! レオ、私のこと信じてないの? こんなに愛し合ってるのに~』


「それ止めろ、鳥肌がたつ」


 執務室の中だからか、男の声に戻っていたはずのルイ。だが、その瞬間、再び女性の甘ったるい声が聞こえてきて、レオがまたもや眉を顰めた。


「お前と愛し合った覚えはない」


「でも、今はそういう設定なんでしょ。だいたい、レオが屋敷の中では常に彼女としてふるまえって言ったんじゃん」


「それより、さっきの間はなんだ。まさか、結月に何か話したんじゃないだろうな」


「……なんで、そう思うの? もしかして、盗み聞きでもしてた?」


「そういう訳じゃない。ただ、お前は良かれと思って、余計なこと口走りそうだからな」


(うわ……相変わらず鋭ーい)


 長い付き合いだからか、自分の性格をよくわかってるらしい。ルイは軽く失笑するが、その後、また不敵に微笑む。


「でもさ、もう悠長なこと言ってられないでしょ。このままじゃ、本当にとられちゃうかもしれないよ、もう一人のモチヅキ君に」


「……!」


 それが、"餅津木 冬弥"の事を言っているのは、レオにもすぐに分かった。

 確かに婚約者が現れた以上、のんびりもしてられない。でも……


「それでも余計なことはするな。話したところで、思い出さなければ、結月を混乱されるだけだ」


「別に混乱さえせてもいいと思うけどな。正直、忘れてる結月ちゃんもどうかと思うよ。レオはあんなに頑張って執事になったのに、肝心の彼女は」


「ルイ」


 ルイの言葉を遮り、レオが苦渋の表情を浮かべる。ルイの気持ちは嬉しかった。そしてそれが、自分のためだということも、よくわかっていた。


 それでも──


「それでも、悪いのは8年も待たせた俺だ。それに、ルイには話していても、結月には話していないこともある」


「え? そうなんだ。てっきり、レオの事はなんでも知ってると思ってたのに」


 信じられないとばかりに、ルイが目を丸くする。


 お互いになんでも話し、なんでも知っている仲だと思っていた。

 だから、自分の知っている事を結月に話せば、もしかしたら思い出すかもしれないと思った。


 でも……


「あー、なるほど。レオ、玲二れいじさんの事は話してないんだね」


「…………」


 どこか納得したように、ルイが目を細めた。


 望月もちづき 玲二れいじ──それは、レオの本当の父親の名前だ。


 だが、その父親は……


「まぁ、話せるわけないか。


「…………」


 ルイの言葉に、レオは視線を落とした。


 思い出すのは、打ち付けるような雨のなか、鳴り響いた電話の音と、真夜中に突然告げられた


 ──父の訃報。


「話さないのは、結月ちゃんが傷つくから? レオは、相変わらず優しいね。でも、その優しさのせいで、レオは今苦しんでるんじゃないの? このまま何もしないまま、待つのはレオの自由だけど、もし結月ちゃんがずっと思い出さず、婚約者と結婚しちゃったら、レオはそれこそ"生きていく意味"をなくしちゃうんじゃないの?」


「…………」


「僕はさ。優しい人が損をするのは嫌なんだ。だからレオも、少しくらいわがままになってよ」


 宝石のように綺麗な青い瞳が細められた。


 昔から友人の夢を応援してくれる、そのルイの瞳は、今も変わらず、純粋なままで──


「……ありがとう、ルイ。でも、結月の事は俺がなんとかする」


 だが、念押ししてレオがそう言えば、ルイはやれやれと言ったふうにため息をついた。


「全く。レオは、結月ちゃんに甘すぎるよ」


「そうかもしれない。それは、そうと……」


 だが、その後レオは、ルイのある一点を見つめると


「お前、胸の形 崩れてないか?」


「え?」




 ✣


 ✣


 ✣




(えーと、あとは、この荷物を五十嵐さんに渡せば……!)


 その頃、屋敷の裏口で配達員からの荷物を受け取った恵美めぐみは、屋敷も中をすすみ、今まさにレオとルイがいる執務室に向かっていた。


 あまり人目につかない屋敷の奥に作られた執務室。その扉の前に立つと、ノックをしようと手を上げる。


 だが……


「んっ、レオ……っ」


「?」


 不意に、執務室の中から声が聞こえて、恵美は手を止めた。


(この声、ルイさん?)


 だが、ルイの声にしては、心做しか低いような?

だが、そう思っていると、今度は、執事の声も聞こえてきた。


「ルイ、もう少し声抑えろ」


「っ……そんなこと、言われても……レオが、優しく、して、くれないから……っ」


「してるだろ」


「してな……ッ、あっ、や……待って……それ、むり……っ」


「いいから、じっとしてろ。すぐ終わらせるから」


 そして、その二人の会話に、恵美は困惑しつつも聞き入る。


 執務室の中には、男と女が二人っきり。その上、どこか艶っぽいルイの声と、屋敷の中では聞いた事のない荒さの混じる執事の声。


 その状況とその声に、あられもない想像をした恵美は顔を真っ赤にして立ち尽くし


(あ……あの二人、何してるの!?)



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