第99話 利用価値


「え……五十嵐が?」


 その後、お風呂に入ったあと、結月はメイドの恵美から聞いた話に目を見開いた。


 なぜなら執事の五十嵐が、父の洋介に呼び出されたからだ。


「別邸の戸狩さんから急に連絡があって……でも、詳しい要件はお話していただけませでした」


「そんな……っ」


 鬼気迫る状況に、結月の表情はみるみる青くなった。


 きっと、昨日の件だと思った。


 昨日、五十嵐は、結月を守るために餅津木冬弥に逆らった。そう、父が決めた婚約者に──


(どうしよう。このままじゃ、五十嵐が……っ)


 良くないことがよぎって、結月の手は微かに震え始めた。自分のせいで、五十嵐がクビにされてしまう。


「どうしよう、恵美さん!」

「お嬢様、落ち着いてください」


 顔を青くし震える結月の手を取り、恵美が宥める。恵美も、このただならぬ状況に、大きな不安を抱いていた。


 昨晩、眠る結月を抱き抱えて、執事が帰宅した時は、酷く驚いたものだった。


 ベッドに寝かせたあと、恵美はコックの冨樫とがし 愛理あいりと共に結月を着替えさせた。


 執事は、あまり詳しくは説明してくれなかったが、餅津木家のパーティーで、何が良くないことが起きたのだということは、その表情を見れば一目瞭然だった。


「あの五十嵐さんが、なにか間違ったことをするとは思えません。大丈夫ですよ、きっと」


「でも、お父様はクビにすると決めたら実行する方よ。どうしよう。もし、五十嵐が……っ」


 このまま、会えなくなるなんて嫌。

 結月はそう思い、瞳に涙を滲ませた。


 思い出すのは、8年前のことだった。母のようにしたっていた白木さんが、自分の断りもなく辞めさせられた。


(もう……あんな……っ)


 あんな思いしたくない。

 大切な人を失いたくない。


「恵美さん、お願い。私を今すぐ別邸に連れて行って!」


「別邸に? いったい何を!?」


「お父様に、五十嵐を辞めさせないでと、直接頼みに行きます!」


「そんな、旦那様に逆らうおつもりですか!?」


「だって、このままじゃ」


「ダメです!それだけは絶対にダメです!!それに、下手にお嬢様が五十嵐さんを庇えば、要らぬ疑いをもたれてしまうかも知れません!」


「疑い?」


「はい。お嬢様が執事に、"恋心"を抱いているのではないかと」


「え……?」


「もし、そのように旦那様たちから疑われたら、それこそ五十嵐さんは、この屋敷にいられなくなります」


「っ……」


 そう言われ、結月は顔を青くし立ち尽くした。


 さっきまでの胸の高鳴りが、じわりじわりと冷えていくようにも感じた。


(そうだわ……この気持ちは)


 絶対に気づかれてはいけない気持ちだ。


 "執事"に恋をしてしまったなんて



 絶対に──












 第99話 利用価値










 ✣✣✣



「あなた、一体なにをしたのですか?」


 レオが別邸につくと、美結付きのメイドである戸狩とがり真波まなみが、気難しそうな顔をしてたっていた。


 長い黒髪をした戸狩とがりは、常に無表情な女性だが、その表情は珍しく動揺しているのが分かる。


「なにを……とは?」


「旦那様が酷くお怒りです」


「それはおかしいですね。私はお嬢様をお守りしただけなのですが?」


 穏やかに笑って返すも、戸狩の表情は変わらなかった。別邸の中も、いつもより騒然としている。


 無理もない。執事がひとり、辞めさせられるかもしれないのだから──


「とにかく、これ以上旦那様の逆鱗に触れることがないように」


「わかっていますよ」


 再び笑顔を貼り付けそう言うと、レオは戸狩の後に続き別邸の中を進む。



 ──ガチャ


 その後、奥の部屋に通されると、広いその部屋の中央で、ソファーに座り猫を撫でる美結と神妙な面持ちでこちらを見つめている洋介と目が合った。


「旦那様、五十嵐を連れてまいりました」


 隣に立つ戸狩が頭を下げると、レオも続けて頭を下げた。


「五十嵐、お前はクビだ」


 だが、その瞬間、矢継ぎ早にそう告げられた。


 もはや弁解の余地もなく、まるで決定事項だとでも言うように──


冬弥とうや様の件でしょうか?」


「そうだ。五十嵐、お前は餅津木家との縁談を台無しにする所だったんだ。これがどういうことかわかるな」


「……はい。その件に関しては深く反省しております。お嬢様の婚約者とは知らず、冬弥様には大変失礼なことをしてしまいました。ですが……」


 下げていた顔を上げると、レオは、まっすぐに洋介を見つめた。


「私は、あの男が、お嬢様に相応しいとは到底おもえません」


「…………」


 ハッキリと物申すと、洋介が心做しか怪訝な顔を浮かべた。


 もちろん、逆らうつもりはない。


 だが、それでも、結月のためにも、執事として伝えておきたいことが山ほどあった。


「旦那様、無礼は承知で申し上げます。今、お嬢様は、冬弥様に対して、大きな不信感を抱いておいでです。知らぬ間にお酒を飲まされ、凄惨せいさんな思いをされて、今朝も酷く怯えていらっしゃいました。それでも旦那様は、あの男を、婚約者にとお考えですか?」


「……お前は、冬弥君が結月を騙して、お酒を飲ませたと言いたいようだな」


「?」


「五十嵐、あのワインは、だ。それをお前が一方的に、冬弥君が結月を酔わすために仕組んだと勘違いした」


「……!?」


 その言葉には、さすがのレオも眉をひそめた。


 どうやら、昨日のワインの件を、冬弥はだと主張しているらしい。


「旦那様は、それを信じておいでなのですか?」


「あぁ」


「…………」


 ハッキリとしたその物言いに、部屋の中がシンと静まりかえった。


 レオの隣にいる戸狩は、先の話に酷く困惑し、美結みゆは依然、猫を撫でながら話を聞いていた。


 昨晩、マスコミの話を出し冬弥に脅しをかけたが、どうやら餅津木家は、こちらのせいにして、息子に過ちは全てなかったことにする気らしい。


(どこまで……っ)


 どこまで汚いヤツらなのだろう。あの餅津木家も、この父親も──


「五十嵐、お前は確かに優秀な執事だが、主人の婚約者を犯罪者扱いした罪は重いぞ。わかったら、早急に引き継ぎをして、出ていきなさい」


「……っ」


 瞬間、レオは息をつめた。


 このままクビになるわけにはいかない。だが、この状況は、明らかに分が悪い。


 レオは、洋介の表情をじっと凝視すると、この難を逃れるための的確な言葉を探す。


 だが、一歩間違えば、それこそ逆鱗にふれてしまう。もし、そうなったら──


(落ち着け。まだ方法はある)


 するとレオは、再び洋介をみつめた。


「旦那様──」

「ふふ……」


 だが、そんな中、猫を撫でていた美結が、クスクスと笑いだし、洋介が視線を向ける。


「どうしたんだ、美結」


「いいえ、父親と執事。どちらが結月のことを考えているかは一目瞭然ね。それに、あなた本当に信じてるの? うちの従業員が、ジュースとワインを間違えたって」


 少し小馬鹿にするように言ったその言葉に、レオが驚き、洋介が眉をひそめた。


「お前まで、私に口答えするのか?」


「そういうわけじゃないわ。でも、あなたがを出した時点で、昨夜のことは、少なからず予測できたはずよ。それに、五十嵐に、結月のそばに居るよう命じたのは、私よ」


「なんだと?」


「五十嵐は私の命令に従って、結月を守っただけ。クビにするなんてお門違いよ」


「…………」


「ねぇ洋介、子供のことに関しては、私もかなり苦労したわ。一族中から子供が出来ないのは私のせいだと言われた。だから結婚前に子供を作らせることを反対しているわけじゃないの。でも、昨日みたいに、酔わせて無理矢理ってのは、さすがに女として納得がいかない」


 猫を撫でながら言った美結の声は、酷く冷たく、その声に洋介は


「いずれ結婚する相手だろう」


「ふざけないで。どこの世界に自分を犯した男と結婚したいと思う女がいるのよ。もし、私が結月と同じことをされたら、一生怨むわよ」


 一触即発の空気。その身も凍るような光景を、レオと戸狩は無言のまま見つめる。


 すると、それからしばらくの沈黙を経たあと


「大体、五十嵐を辞めさせて、あの屋敷の総括を誰に任せる気なの? 矢野だって辞めてしまうのよ」


「矢野の辞表を取り下げればいい」


「バカ言わないで。それよりも、この執事を、もっと有効的にするべきじゃないかしら?」


「利用?」


 唐突に飛び出した不穏な話。

 それを聞いて、レオが眉をひくつかせた。


 クビを回避できるなら何だってする。だが……


「結月は、五十嵐にとてもよく懐いてるわ。だからきっと、五十嵐のいうことなら、なんでも聞くと思うの」


「なるほど。確かにそれは、利用しがいがありそうだな」


「……っ」


 美結と洋介が、同時にレオを見つめた。


 そして、その後に続いた言葉に、レオが苦渋の表情を浮かべたのを、隣に立つ戸狩が見逃すことはなかった。

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