第10話 大切なもの
「──え?」
それは、とても柔らかな声だった。
まるで、愛しい人に語りかけるかのような、そんな声。
だが、唐突に放たれたその言葉に、結月は困惑する。
(私のため?……ッ!?)
だが、その直後、結月はハッと我に返った。
日頃、男性とこんなに顔を近づけることはない。
いや、あってはならない。
それに、いくら慌てていたとはいえ、自分から男性の手を取ってしまうなんて──
(わ、私……なんて、はしたないことを)
自分の行動を振り返り、結月は顔を赤くし、執事から目をそらした。
手を離さなくては──しかし、そうは思っても、執事に掴まれていて離すに離せない。
「あ、あの、五十嵐……手を離しては、もらえないかしら?」
「あぁ、これは失礼致しました」
すると、結月が恥じらいながら訴えれば、レオは、その後、あっさり手を離した。
二人の距離は、またいつもの距離に戻り、結月が安堵の表情を浮かべる。しかし、そんな結月の手を、レオは再び掴み
「これは、お返し致します」
そう言って、結月の手の平に、そっと『箱』を乗せた。
大切な箱が戻ってきて、結月が、ほっと胸をなで下ろすと、レオは、先ほどの書類を引き出しから取り出し、改めて頭を下げる。
「それでは、お嬢様。私は、この書類を斎藤に手渡して参ります」
「斎藤に?」
「はい。斎藤がこの後、奥様の元に伺うそうですので、きっと明日の朝には、お嬢様に、お渡しできるかと」
「そ、そう」
「はい。それでは、失礼──」
「あ、待って!」
だが、部屋から立ち去ろうとしたレオを、結月が引き止める。
「……っ」
だが、再び目が合えば、結月は言葉を飲み込んでしまった。
『お嬢様のために──』
あの言葉が、不思議と気になった。
だが、直接問いただすのは、なぜだか
「えっと……何でも、ないわ」
「そうですか。では、またすぐに戻って参ります」
すると、レオは部屋から出ていって、結月は、箱を握りしめながら
「……私のためって、どういうこと?」
✣
✣
✣
(ちょっと……危なかったな)
その後、結月の部屋を出たレオは、壁にもたれかかり、その胸の高鳴りを必死になって抑えていた。
色々なことが一気に起きたからか、柄にもなく動揺していた。
あの箱のことも──そして、なにより、久しぶりに、彼女に触れられたことが。
書類を手渡してくるなんて、半分、あの場をさる口実のようなものだった。
あのまま、あの場にいたら、どうなっていたかわからない。いや、きっと結月に手を握られていなければ、あのまま、抱きしめていたかもしれない。
(あの箱……まだ、持っていたのか)
自分の口元が、締りなく緩むのが分かった。
咄嗟に口元を手で覆うも、それでは収まりがつかないくらい、レオの心は、今、喜びに満ちていた。
結月と再会して、結月が自分のことを忘れていたからか、もうとっくに捨てられていると思っていた。
だけど、結月は、箱を持ち去られるのを拒んだどころか、あの箱を大切なものだと言ったのだ。
『──必ず、迎えに来るから』
すると、不意に、幼い日の二人が脳裏に過ぎった。日本をたつ前、レオはあの箱を手渡して、結月と、ある約束をした。
そして、その約束を果たすために、レオは今こうして、この屋敷に戻ってきた。
「……大切なもの、か」
それは、微かに希望が見えた瞬間だった。
結月はきっと、忘れていない。例え、自分のことを忘れてしまっていたとしても、心のどこかに、あの箱が大切だという記憶が残っている。
(確か……分からないと言っていたな)
少しだけ真面目な表情になり、レオは先程の結月の言動を振り返る。
確かに、いくら自分を嫌いになったり、この数年の間に心変わりしたとしても、自分と過ごしたあの時間を、忘れるなんておかしいと思っていた。
なら、きっと、何かあったに違いない。
あの日、自分と別れてから、今日までの間に、結月が、忘れてしまうような、何かが──
「少し……探ってみる必要がありそうだな」
そう呟くと、レオは書類を手に、静かに歩き出した。
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