お嬢様と執事は、その箱に夢を見る。

雪桜

第一章 執事来訪

第1話 猫と箱


「にゃ~」


 柔らかな春の日──革製のトランクを閉めた男の足に、一匹の猫がまとわりついた。


 真っ黒な毛並みをした、綺麗な黒猫。


 長い尻尾しっぽをゆらゆらと揺らすその猫は、まるで構ってほしいとばかりに男の足に擦り寄り、グルグルと喉を鳴らしていた。


「にゃー」


「ルナ。悪いが、お前とは、しばらく会えなくなる」


 すると、その猫の視線に気づいたらしい。

 男が、そっと猫の名を呼ぶ。


 スラリと背の高いその男は、猫と同じく艶やかな黒髪をした美青年だった。


 品のある顔立ちに均整のとれた体躯。

 見た目も、二十歳そこらと、まだ若い。


 だが、黒のスーツをきっちりと着こなす、その玲瓏れいろうな姿は、きっと、どこの紳士にも引けを取らない。


「にゃー……」


「そう言うな。仕方ないだろう? 俺は今日から、で、住み込みで働くことになるんだから」


 寂しそうにじゃれつく猫の前に膝をつくと、青年は申し訳なさそうに苦笑する。


 この愛猫と暮らすのも、今日が最後。


 それを思うと、なんとも切ない気持ちになって、青年はうやうやしく黒猫を抱き上げると、まるで壊れ物を扱うように、優しく優しく抱きしめる。


「心配するな。──必ず、迎えにいく」


 だから、分かっておくれ?……と、猫の背を撫でると、名残惜しそうに、自分の頬にすり寄せた。


 この愛猫と別れるのは、忍びない。


 だが、自分はずっと、この日を待ちわびてきたのだ。に会える、この時を──


「あぁ、やっと会える──俺の愛しい愛しい、




 これは、今よりも数十年ほど昔のお話。


 携帯やパソコンがなく、連絡手段は、手紙か固定電話。そんな懐かしい時代に産まれ生き、そして、激しい恋をした


 ──とある執事と、お嬢様のお話。











   『お嬢様と執事は、その箱に夢を見る。』












✣✣✣



「おはようございます、お嬢様!」


 名家・阿須加あすか家。


 そして、その日の朝は、高らかなメイドの声から始まった。


 朝日が射し込む中、お嬢様の部屋の扉を開けて入ってきたのは、ポニーテール姿の若いメイドだった。


 そして、そのメイドは、だだっ広い西洋風の部屋の中をスタスタと進むと、天蓋付きのベッドの前まで歩みよる。


結月ゆづき様! もう朝ですよ! 起きてくださいまし」


「ん~……」


 すると、この春の季節、少し薄手の羽毛布団の中から、女の子が顔を出した。


 彼女の名前は、阿須加あすか 結月ゆづき。18歳。

 この屋敷に住む一人娘だ。


 茶色がかった黒髪は腰近くまで伸び、細いながらも柔らかな容姿は、とても女性らしく魅力的。その上、色白で愛らしい顔立ちは、まさに絵に書いたようなお嬢様だった。


 しかし、結月は、その後、小さく欠伸をすると


「ふぁ~……ごめんね、恵美さん。いつも起こしてもらっちゃって」


「いいえ。お嬢様が、朝が弱いのは今に始まったことじゃありませんし。あ、カーテンを開けでもよろしいでしょうか? 今日は、とてもいい天気ですよ!」


「えぇ、お願い」


 メイドの声に、結月が、ふわりと微笑む。


 すると、そのメイド──相原あいはら 恵美めぐみは、窓の前まで歩み寄り、サッとカーテンを開けた。


 すると、そこには、まるで絵画の中のような、英国風の美しい景色が広がっていた。


 庭というには広すぎるその庭園には、全て阿須加家の敷地内にある光景だ。


 奥に見える正門から、真っ直ぐに伸びる白亜の道と、それを彩る美しい花々。


 屋敷の手前には、ロココ調の噴水が優雅に流水し、そして、その傍らには、ティータイムを楽しむためのアウトリビングまであった。


 それを見れば、結月の住む屋敷が、いかに広大かは、一目瞭然!


 だが、そんな広大な屋敷で暮らしているのは、結月と、たった四人の使用人だけだった。


 結月の身の回りの世話をするメイド『相原あいはら 恵美めぐみ』に、メイド長 兼 家庭教師ガヴァネスの『矢野 智子』。

 そして、シェフの『冨樫 愛理』に、運転手の『斎藤 源次郎』の四人だけ。


 父と母は、めったにこの屋敷には訪れない。


 だからかこの四人は、結月にとっては、家族も同然な人たちだった。


「お嬢様。本日のモーニングティーは、アッサムをご用意いたしました。ミルクは、いかがいたしますか?」


「そうね、入れてちょうだい」


 恵美が、モーニングティーをれながら、問いかければ、結月は、柔らかく笑いかけ、その後、ベッドから立ち上がった。


 外の景色を眺めたあと、自分の机の前まで歩み寄る。


 すると、その机の上には、が置かれていた。


 淡いブルーの正方形の──箱。


「……お嬢様、前から気になっていたのですが、その箱には、一体何が入っているのですか?」


 すると、当たり前のように、その箱を手に取った結月を見て、恵美が、不思議そうに問いかけた。


 お嬢様が、毎日かかさず手に取る『箱』

 正直、中身が気にならないといえば嘘になる。


「指輪でも入っているのですか?」


「ふふ、気になる?」


 すると結月は、恵美の前に箱を差し出し、その蓋をカポッと開けて見せた。

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