グンさんと郡司さん
あの高台までやって来た。マスタングは麓の駐車場で桜の花びらを纏って仮眠をとっている。グンさんは僕の傍でマルボロを吸っている。僕はと言えば、この日、二度目の工場地帯を眺めている。
凪いでいた。煙突から立ちのぼる煙はどれも、兵隊さんさながらに揃って直立している。開いたままの写真集のように静止して見えた。どういうわけか、その写真集はモノトーンだった。
工場地帯を眺める僕の姿は、傍から見れば未練がましく見えたと思う。グンさんが「返り咲きたいのかい?」と訊いたのも、そのせいかもしれない。実際、煙突下の労働者には入っては辞めを繰り返す人が多かった。僕もその予備軍の一人かもしれないと思うと、やるせなかった。
グンさんが煙をふうと吐き出し、「これから、どうするんだい?」と肩越しに訊く。僕はなにも答えられず、じっと押し黙ってしまった。
さっきまでは「仕事は?」という問いかけに怯え、いまは「どうするんだ?」という問いかけに怯える。胸中のわだかまりがまた風船のように膨らみはじめ、圧迫しようとしていた。
グンさんは僕からの答えを求めようとはせず、煙草を携帯灰皿で揉み消すと静かに話を切り出した。それはいつもお道化てみせるグンさんとは違う、言葉を選びながら訥々と話す、もう一面の方だった。
僕の中には二人のグンさんが居る。“グンさん”と“郡司さん”だ。
「日下部君が電話くれたときさ、ピンと来たのね。ああ、辞めたんだなって」
「……うん」
「俺は別にい、ほら、日下部君の親でもないし、先生でもないしさあ、そんなの、どうでもいいのね」
僕は頷くと同時に、「どうでもいい」という言葉に、突き放されたわけでも、受け入れられたわけでもない、なにか柔らかい棘のようなもので撫でられる感じがした。
「正直に言うとね、俺、あのマスタング、手放す気なんて、なかったんだよ」
郡司さんが初代マスタングにどれほど愛着を持っていたのか、言われなくても分かっている。
「でね、電話くれた日とマスタング、あの赤い方だけど、あれが来た日は同じ日でね、偶然だけど。で、そのとき決めたのね。白い方は、日下部君に譲ろうって。何でか、分かる?」
僕はかぶりを振る、分からない、と。
「うん、分からなくても、いいよ。俺にも、分からないからさ」
郡司さんは僕に正面を向けると、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべ、二本目の煙草を咥えて火をつけた。ジッポーの蓋を閉じる音がパチンと鳴ると、目だけは恐ろしいほどの凄みを見せ話を続ける。その目は僕を徹底的に萎縮させた。
「これは、日下部君に変なプレッシャー、与えるつもりじゃないけど、あの車、買えば数百万はすんだよね」
僕は身をこわばらせ、頷く。
「俺はさあ、日下部君に、そんな値で売りつけるほど、人でなしじゃない、分かる?」
「はい」
僕の返事は「うん」でも「ええ」でもない。「はい」だった。
「でもね、もし、日下部君以外の奴に売るとしたら、もし売るとなったらの場合ね、相応以上の値で売るよ、分かる?」
こんどは無言で頷いた。
「日下部君だから、百万なんだけど。かと言ってさあ、
漠然とだけど分かる。でも禅問答のようなそれを満足させるだけの上手い言葉が見つからない。言葉を探そうとする僕の目は泳ぎ、郡司さんが手にしていた煙草の長くなった灰で止まる。灰は僕のまばたきだけで零れ、尖ったブーツの爪先に弾けて崩れた。
「とにかくさ、あのマスタングは、もう日下部君のものなんだ。事故って廃車にしようと、誰かに売ろうとさ、維持できなくなって、俺のとこに返すのもいいよ。それは日下部君の、自由だからね。まあ、そうならないのが一番、いいんだけど。恩着せがましいようだけど、これ、大事なことだから、言っとくね」
郡司さんが話すあいだ、自分でも心拍数が上がり、手汗をかいているのが分かる。いつ拳が飛んできても躱せるように気構えてさえいた。過去に殴られたことも、そんな素振りさえ見せられたこともないけど、それくらい臆病になっていた。
「それと、もう一つ……」
郡司さんはらしくない躊躇いを見せ、たっぷり溜めて、ついには次の声を発した。
「俺はね、たぶん、日下部君が、怖いんだよね」
そう吐露したのは“グンさん”だった。はにかんだように、ヘヘっと笑う。
狐につままれた気分だ。いったい僕のどこが怖いのか皆目分からない。とにかく、台風の進路が逸れたような安堵感に僕は脱力し、「はあ、どうも」とまったく調子はずれな反応をした。あまりにも滑稽に映ったのか、グンさんは声を上げて笑い、それまでの雰囲気を砕いてくれた。
僕らの傍を、手をつないで散歩する老夫婦が居た。お二人が遠くに行き過ぎるのを待ってから、改めて工場地帯に向き直す。煙突の兵隊さんたちは相変わらず静止したままだったけど、こんどの写真集は色が付いて見えた。
「仕事は、きつかっのたかい?」
グンさんが不意に訊く。そこに深い意味はないと思った。たぶん、「今日はいい天気だね」程度のカジュアルな声かけだろう、そう踏んだ。
自分の影を見ながら、つい数日前までのことを振り返る。きついけど辛くもなく、楽でもなかった。そんな位置に身を置いた六年は、スーツを着たサラリーマンに比べたらぬるま湯だと思う、と素直に言った。
やはりグンさんは関心なさ気に「そうか」とだけ返すと、煙草を咥えて火をつけようとした。
高台に来てから、グンさんが吸う煙草が何本目かなんてもう数えてはいない。でも気に掛けてはいた。グンさんと出会ってから初めて注意喚起する。あんまり吸いすぎると、ロッド・スチュワートがサッチモになるよ、と。
グンさんは困惑した表情で、「言うなよお」と受け流し、肩をすくめて火をつけた。そして大きく吸い込むと、細く細く、長く長く煙を吹いて、別方向から切り返してきた。
「 “鉄の丘”って、知ってるかい?」
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