第23話 突然の帰還
「落ち着いて、ネイラ。いったい何があったの?」
お姉様は、イライラしているようですが、ここにいます。
ロエルは……まあ元気でしょう。お父様は王宮にいるはずだし、お母様は今日はどこかへお出かけになったはずだけど……。
「お帰りになりました!」
「誰が帰ってきたの?」
「あの方です!」
「もうっ! だから、誰なのよっ!」
「そ、そうね、ネイラ、早くお名前を言ってちょうだい」
「ご夫君ですっ!」
ネイラは悲鳴のような声で言いました。
その耳障りな声に眉をひそめたアルチーナ姉様は、でもすぐに目を大きく見開いていました。
「もしかして、成り上がりのこと? あの男はあと数ヶ月は寄り付かないはずだったでしょう?」
「でもお戻りになっていますっ! 薄汚れた旅装のまま、応接間に……っ!」
それを聞いても、私はまだ呆然と立っていました。
夫君という言葉に慣れていないせいでしょう。お姉様の言葉でグロイン侯爵様のことと気付きましたが、その方が私の夫である事実を思い出したのは、お姉様が立ち上がってからでした。
「エレナ。何をしているの。早く行きなさい。応接間に泥まみれの野犬に居付かれると困るじゃないの。早く行って、用件を済ませて追い返しなさいよ」
「……は、はい!」
お姉様の言葉は苛烈ですが、お待たせするべきではないのは確かです。
私は簡単に身仕舞いを終えて、急いで応接間へと向かいました。
応接間の扉の前で、私は深呼吸をしました。
中にいるのはグロイン侯爵様。およそ一ヶ月半ぶりになる私の「夫」です。
最初の挨拶は、何にするべきでしょうか。
普通に「お帰りなさいませ」? それとも「お疲れ様でした」? 状況的には「お久しぶりです」と言いたくなりますが、嫌味っぽく聞こえてしまう気もします。
迷いながらも扉に手をかけて、もし中にいるのはお一人ではないかもしれないと思いつきます。お二人以上の騎士様がいたら……どなたが侯爵様かを見分けられるのでしょうか?
考えれば考えるほど、動きが取れなくなってきました。
血の気が引くのを感じていると、わざとらしい咳払いが聞こえました。
アルチーナ姉様です。廊下の向こうからじろりと睨みつけられ、私は反射的に扉をノックしていました。
「……し、失礼します」
こうなったら、もう戻れない。
私は覚悟を決めて扉を開けました。でも目は上げられません。
床を見ながら中に入り、そっと扉を閉めました。
閉めたばかりの扉から逃げ出したい気持ちを必死に抑え、手をぎゅっと握りしめて振り返ります。おそるおそる目を上げると、広い背中が見えました。
「お、お待たせしま……」
言葉の途中で、硬直してしまいました。
私の視界いっぱいに、背の高い男性の背中がありました。騎士風の男性が扉近くに立っているのだと気付き、ゆっくりと瞬きをします。
色鮮やかな青いマントは、よく見ると土埃でくすんでいました。白砂をつけたブーツも、黒を基調とした騎士服も白っぽく見えますから、やはり汚れているようです。
長旅の後に直接ここに来たのだと思い当たった時、騎士様は振り返りました。
「お元気そうだな。エレナ殿」
グロイン侯爵様でした。
私はこの方を忘れていませんでした。
金色の目は、記憶通りに冷たく輝いています。こんなに近くから見上げるのは、婚儀の時以来でしょうか。
冷たい金色の目も、表情の薄いお顔も、黒髪の隙間から見える額の傷も、私の記憶通りです。騎士の制服は王宮で拝見して以来ですが、相変わらずよくお似合いですね。
ただ、記憶にあるより少し日焼けしている気がして、私は思わずお顔を見つめてしまいました。
「……王都に戻ってそのまま来てしまったのはまずかったか。顔に泥を跳ねているだろうか」
「あ、違います! その、以前より日焼けしている気がして……」
そう言いかけてから、まだきちんとした挨拶をしていないことを思い出しました。
慌てて姿勢を正しましたが、咄嗟に言葉が出てきません。
何度か口を開け、その度に閉じ、どこかにヒントがないかと視線を彷徨わせます。客用の椅子を見やって、その椅子に座った形跡がないことに気付きました。
侯爵様は応接間にいるのに、座らないままでいるようです。
そう言えば、扉からすぐの場所に立っていました。
マントを脱ぐとか、手袋を外すとか、或いは葡萄酒を飲むとか。
北東の砦からは馬でも七日はかかると聞いています。その旅程を終えて全く疲れていないはずがないのに、立ったまま、少しも寛ぐこともなく……おそらく椅子や部屋を汚さないようにしているのでしょう。
私は侯爵様を見上げました。
ほんの数歩の距離に立っている侯爵様は背が高くて、姿勢も良くて。でもきっと疲れもあるはずで。この方は、旅装を改める前にここに寄ってくださいました。
それは……とても嬉しい気がします。
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