第53話 侵略せよ、我が翅と夢・5
燃える街の中、シェイスは身体を濡らす触ったことのない感触の液体に気がつき、うっすらと目を開けた。車いすが壊れて地面に転がっていた彼女は自分が満天の星空、いや、宇宙の中にいるように思えた。空も地面も宇宙空間のように真っ暗な中、無数の星が輝いている。支部局の姿は跡形もなく、街も見えない。時折漁火のような炎が視界にちらついては消え、燃え上がっては闇に飲まれていく。
服や髪や肌に粘度の高い液体がこびりついて水面に繋ぎとめようとするので、半身を起こすのもやっとだった。
「お母さん、可哀想ね」
そんなシェイスの前に、静かにセセリは立っていた。かろうじて赤いベストと緑のアイメイクがぼんやりと違う色を灯すだけで、彼女はほとんど宇宙に同化している。
翅は宇宙に溶け込むように広がっていて、もう原材料の姿は見えない。星のような模様をたたえた美しい翅は今や天に届くほど膨張していた。
「僕、貴方が大好き。貴方にいつも感謝してる。僕を育ててくれてありがとう。僕の我儘をいつだって叶えてくれたよね?いっぱいいっぱい愛情と心を注いでくれた」
そうは言いながらも見下ろして、いや、見下すような眼を母に向けていた。
「ぬいぐるみを欲しがった時も、職場の人に頭を下げて端切れを集めて手作りしてくれた。お父さんが欲しいって駄々にも誠心誠意説明して謝ってくれたね。売女っていじめられた時も、すぐさま引っ越ししてくれた」
セセリは、もはやセセリの顔すら捨てたように大笑いしながら、楽しそうに踊りだした。翅の重みで上手くステップが踏めないことなど気にしない。
足元の
「お母さんは誰も責めなかった。いつもいつも自分が至らないせいだって言ってた。いつからだろう……そんなお母さんにたまらなく興奮しているって気づいたのは」
セセリは空を仰ぎ見た。彼女の世界の星空をじぃっと眺め、一つ一つの星に思い出を見ているかのようだった。
「お母さんを悲しませるから言いたくなかったけど、僕はお母さんを悲しませたくて仕方なかった。だからね、ぬいぐるみも別に欲しくなかったし、お父さんのこともどうでもよかったの。
僕が貴方の想う当たり前を欲しがった時に、それを与えられていないことにショックを受けて欲しかっただけ。僕を殺したあの男に意味ありげに微笑んでみせたのも、またストーカーが増えたらお母さんが心配したり困ったりして病んでくれると思ったから。まさかその日のうちにナイフ持ち出すとは思わなかっただけで」
「私を恨んでいたの?」
震える声のシェイスに、セセリは心底うんざりしたような顔を向けた。
「話聞いてた?そういう普通のことを考えるから言わずに黙っていたの」
「私以外の人にもこんな酷いことをするのは何故?私だけでいいじゃない……」
「どこまで普通のことしか言えないの?まともな人過ぎるんだよ、ボロ雑巾の自分を見てみなよ。まっとうな善人は他人が傷つけられても傷つくからコスパいいよね」
「コスパ……そんなことで……」
シェイスは本当に理解出来ない、という顔で娘であるはずの相手を見た。
「その顔、もっと見せて?」
セセリは片膝をついて母の顔を覗き込む。ただし自分と同じ色の瞳から涙が湧き上がり、頬を伝って落ちて、超空洞に飲まれていく様子は興味がなさそうだった。戯れにその涙をぬぐってやると、シェイスは更にその瞳からポロポロと涙を零した。
「私が……あの時、助けられなかったから……」
「えー?変態の衝動的な犯行を食い止められる?そんな凄い人だったっけ?お母さんって。無理だよ、無理無理!
でも男に産んでくれたらこんな目に合わなかったかもね!
自分一人で幸せにもなれないくせに、どうして何もかも与えられる幸福な社会から逃げ出したの?……レイオール生まれなら、ボタン一つで男として生まれることが出来たのに」
シェイスは泣き崩れ、ドロドロとした液体など気にせず水面に額をこすりつけ、ごめんなさい、と繰り返した。許して、とは一度も言わなかった。ただ私のせいで、ごめんなさい、何も与えられずに、と壊れた機械のように泣き叫ぶだけだった。
そんな母親を見て満足そうに微笑むセセリだが、彼女自身気が付かないうちに拳を握りしめていた。
「なんか違うな、って思ってんだろ」
遠くの何かが燃える音と近くの消えていく音をかき分けるような声が聞こえた。セセリがそちらを見ると、水音も立てずに波紋だけをいくつも生みながらこちらに近づく一人の男がいた。
男は、眞紅は、頭から血を流しながらそこにいた。グレーダーは握っているだけで、もう戦えそうもない。制服の色が青だと分からないほどに血と
ほどなく動けなくなって飲み込まれて無に還るだろうとセセリでも分かる。だが彼は止まらない。
「お前の願いがお前の認識からずれてるって感じしないか?いつもお前らが感じてる精神の齟齬ってやつと近い感じのさ。腹減ってる時に飯選ぶとよくあるよな、自分が食べたかったのはこれじゃなかったなぁってやつ」
「腕、上がらないんですか?」
トランプが刺さったままの右腕や足には黒い血がまとわりついている。
「まぁな。いや俺のことはいいんだ、ちょっと俺と話しませんか?」
「貴方と話したいことなんて何にもありませんけど?」
「お前に言ってんじゃない。オーディ議員、俺の声、聞こえてますか?」
「……僕のお母さんに気軽に話しかけないでくれる?」
トランプが眞紅の首元に飛び、首の皮が切れた。首元を真っ赤にしながらも眞紅はセセリを一切見ずにシェイスを見る。
「ヴォイドが言う通りの人生だったのでしょうか」
「なに言ってんの?」
セセリの問いには答えず、視線も送らない。
「あなたの人生は理不尽と悲しみだけの不幸なものだったのでしょうか」
「そうに決まってるよ、頭おかしいの?この惨状が見えないわけ?」
「やたら母親の善性に担保された願いだな。ここまでやるのは流石に自分の娘じゃないって開き直って不幸にならなかったら水の泡だぞ。願いが叶わないと認識した時点でお前は自壊するんだ。
それともあれか?そう言ってほしいのか?」
眞紅の言葉で、セセリは言葉を失った。早く反論しなければいけない、と本能が警告している。だが何故か言葉が浮かんでこない。そうこうしていると、古くなった鉄骨が崩れ落ちるみたいに、めきめきと轟音を立てて、翅が一枚ちぎれて落ちた。
超空洞に落ちた翅のせいで一メートルほどの波が起きて、眞紅はあっけなく転ばされて少し後ろに流された。傷口に
「お母さんが僕を見捨てるわけないだろ!僕はセセリだぞ!
生き返った、あの女の娘だ!」
「勿論よ。あなたを見捨てたりしないわ」
這いつくばりながらも、必死に声を上げたシェイスの姿に、セセリは何故か顔が強張った。
セセリは自分の顔を触り、その表情の理由が分からないと困惑した。
「こんなことはやめて。私を痛めつけたいなら私だけにしてちょうだい。誰かが傷つくのも、あなたの手がこれ以上汚れるのも嫌なの。あなたと一緒にいるわ、あなたの好きにしていいわ。だからもう、やめて」
「どうして……?」
理解が追い付かなくなったのはセセリの方だった。ほんの少し前まで、確かシェイスが、お母さんが僕を理解出来ないと項垂れていたはずなのに、とセセリは混乱していた。
シェイスは顔を上げている。彼女の瞳が娘の姿をしたものをしっかり捉えている。
「どうしてって親子じゃない。あなたもわかってるでしょ?」
「でも、僕」
そのとき、セセリの脳裏にある会話が思い出された。
『レムレスは機械に近い』
『偶然その器に注がれた汚水にしか過ぎない』
頭の中に地面に落ちた水風船が破裂した音がした。中から内臓が出てくるはずなのに、そこに入っていたのはコールタールみたいな黒くて重い何かだった。そうして彼女は直視した。
「……僕、セセリじゃ、ない?」
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