第9話 遭遇・3
レムレスを動かすエネルギーは他者からの祈りだ。
肉体という器に満ちた、祈りという他人の感情の残滓は時間ごとに蒸発し、器は空になっていく。親しい人の死を乗り越えられるように、未来へ進めるように、人間には忘却という機能が備わっている。そしていつまでも故人を同じ熱量で想い続けられる人間はいないようにも出来ている。
その忘却と達観と受容がレムレスの天敵であった。
だが一つ例外がある。
忘却されるよりも前、熱が枯渇するよりも前に、レムレス自身が意識と器の齟齬を忘却してしまったら。
自分がその身体の持ち主だと思い込んでしまったら。生前も自分のままだったと思い違いしてしまったら。
その時レムレスは進化する。生前の延長線上にある、今の自分の願いを叶えるために羽化するのだ。
21グラムの失った魂を補完した祈りが強ければ強いほど、羽化する確率が高くなる。より愛され求められた人間がレムレスになった時ほど。それがヴォイドとなって愛した人々に牙を剥くのだ。
ブレイズは左足についた零烙で、時間がないと思い知らされる。目の前の繭が振動し、漂っていた
クレイドの姿は見えない。下がれと言ったからには一旦繭から離れたのかもしれない。一級執行官の言うことに従った方がいいのかもしれない。彼は一人でぐるぐると思考を巡らせる。
迷っている暇はない、それが彼の答えだった。今が最後のチャンスだ、と鉈を振り下ろした。
だが、その刃は繭まで届かなかった。ブレイズが叩き割るより前に繭に亀裂がはいっていた。そこから細長い腕一本が生えていて、鉈を受け止めていた。
「……クソが、また遅かったか」
ブレイズのぼやきとほぼ同時に、繭が裂けて強い風が辺り一面に駆け巡った。
戦闘を続けていた眞紅達は咄嗟に姿勢を低くして吹き飛ばされないようにする。まだ生き残っていたゴレムは風で態勢を崩し、地面に叩きつけられながら転がっていった。
眼鏡で目を保護されている眞紅がいち早く、砂の舞う風の中、目を開ける。
すると、周囲の風景が寂れた山間から手術室のような情景に書き換えられていくところであった。
『急速なゼヌシージ濃度の上昇!羽化反応です!ゼヌシージ粒子拡散、超空洞が形成されていきます!』
リャンの通信に、アミティエも顔を上げた。
超空洞、授業で習ったな、とどこか現実味のないぼんやりとした感想を抱いてしまった。
レムレス・ヴォイドは
それが超空洞。精神世界を具現化した個人の宇宙。形成段階で飲み込まれた他人は無に還る、とされている。完成した超空洞は世界の中にある異世界となり、今度は世界が齟齬に耐えかねて崩壊する。
西暦の世界が一度滅びたのは、世界中に発生した超空洞という別世界の情報量に地球が耐え切れなかったからだと伝えられていた。
繭のあった場所は真っ暗闇で何も見えない。ゴレムの顔面のように、レムレスの瞳のようにぽっかりと空いた空洞がそこにはある。そこから黒い液体が、
「二人とも一旦引け!飲み込まれるぞ!!」
隣の眞紅が声を張り上げたことで、アミティエは正気を取り戻し、斧を再び固く握りしめた。
通信は届かなくても声は届く。ブレイズもまた眞紅の声で混乱する頭を理性で殴りつけて、状況を把握するため退こうと足を動かす。
そこで自分の左足が、床と同化していることに気が付いた。
形成されていく手術室の床は、青いタイルを張られた非常に古い形式であった。壁も古く脆く見える。闇医者の隠れ家のような世界が徐々に広がっていく。
ブレイズは丁度、多少地面が盛り上がった場所にいたからか、垂れた
やばい、とすら口に出ないほどの緊迫した場面で、今度はゴレムが黒い水の中から現れる。
動ける範囲でグレーダーを振り回しても、転倒を恐れて無茶は出来ない。
だが、視界の外から一気に距離をつめてきたクレイドが、その大剣でゴレムをなぎ倒した。彼はブレイズをかばうようにゴレムと戦った。
この状況で俺をかばってどうする、と思ったブレイズだったが、次に駆けつけた眞紅のせいでタイミングを逃す。
「大丈夫ですか!?あ、訓練生達は待機させてます!」
そう言いながら、眞紅は戦闘をクレイドに任せてブレイズの元へ来た。彼の足を見てQUQを起動し、スキャンした結果を見て渋い顔をする。
もう駄目か、とブレイズは腹を括った。
「お前らだけでも一旦引け」
そう告げられた眞紅は、一瞬戸惑った。しかしそれはほんの一瞬だけで、すぐに覚悟を決めたような瞳に移り変わった。
同じ決意を固めてくれたと思ったブレイズだったが、彼の予想とは違い眞紅は自らの装備から止血帯を取り出し、ブレイズの左足の膝上にそれを巻き付けて強く結ぶ。
「なにしてんだ?」
「全員生きて連れ帰るって出発前にあいつらと約束したんですよ。途中参加でも適用されますので。いえ、一人あれですけど」
「お前」
「レムレスごときでは決めなくていい覚悟だってあります。とっておきましょうよ」
眞紅の眼は本気だった。多少のやけっぱちはあるが、冷静に見える。
「ブレイズ執行官、痛みには強い方ですか?」
記憶から掘り出した、唯一といっていいくらいの眞紅の姿を思い出す。頭を割られたはずの若い執行官がいつの間にか起き上がり、全員助けると上官に食ってかかっていたあの姿を。
よくいる理想論に生きているガキだと思い放っていたら、いつの間にか全員が彼の話を聞いていた。あまりにも堂々と、理路整然と彼らを助ける必要性と方法を提示してきたため、しまいには聞き耳を立てていただけのメンバーが次々と議論に参加して、策の穴を埋める算段までしてやっていた。
周りをその気にさせるのが上手かった、と眞紅のことをやっと本当に思い出した気がした。
ブレイズは自分の動かない左足を見る。もう膝から下の感覚はない。だが、俺本体を諦めてやるには、確かに。
もったいない。
「かなり」
右手に持っていたグレーダーを眞紅に渡し、ブレイズは別の覚悟で再び腹を括った。
「すまん、頼む!」
眞紅はその返事を待っていたというように、零烙に触れないよう小さな岩に足をのせてブレイズの左足の横に立った。鉈を握る手が少しばかり震えたが、それは見ないふりをして構えた。
だが突然眞紅は後ろから抱きかかえられ、ブレイズの隣から離される。振り向くまでもなく目に入る赤い髪に気がついた。
そして眞紅を地面におろしたクレイドは、あっという間に自分の大剣でブレイズの左足を切断した。
「一言かけろ!!!!!」
切り離されて後ろに倒れこみながら絶叫するブレイズ。右足で器用にバランスをとって零烙から離れて、受け身をとってからの転倒だった。
「確かに」とそれを見届けてからクレイドは答えた。本当に一声かけるべきだったと反省しているように眞紅には見えたが、ブレイズには喧嘩を売ってきているようにしか思えなかった。
「ともかく運びますね!」
眞紅はブレイズを背中側から抱え、重い身体を引きずって中心から離れる。レムレスの姿はまだ見えない。通常なら繭が割れた時点で、願いに対応した異形のエッセンスを取り入れた、見た目も化け物になったレムレス・ヴォイドが見えるはずだった。
待機していたアミティエ達までブレイズを届ける。
「アミティエ、跳べ!エルデも戻れ」
「あいさ!」
アミティエはブレイズを片手で持ち上げ、数メートルの崖もものともせずジャンプしてみせた。その乱雑な着地に「うぐっ!」とうなり声が聞こえたが、みんな必死だったので聞かなかったことにした。
次いでエルデもドームシェルターまで戻り、真っ黒な水面とそこから生じる手術室、というアンバランスな世界の近くにいるのはクレイドだけとなった。
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