26 僕は幸せになんかなっちゃいけない
「親父さんにさ。言った方がいいと思う。今とは言わんけど」
「……何を?」
「……その……何だ、魂の……正た……事実のこと」
「柳川宏則のこと?」
「そうそれ」
口ごもるのは広田の優しさだった。それは痛いほど幸視にもわかっていた。だが、口ごもることで、それがいかに言いづらい重いものであるか、再び確認してしまう。
正体という言葉も、少々ネガティブワードだった。正体見たり枯れ尾花。枯れ尾花よりも醜く、価値がなく、質が悪いもの。
「……ずっと母さんのフリを続けるしかないよ。それが僕が背負った罰だ」
「罰なんか背負ってない! おかしいだろ! 生まれながらに背負ってるなんて」
「僕に生まれる意味があったのなら、背負うために生まれてきたんじゃないかな」
「そんな命なんてない……まず自分のために生きろ」
「前にTVでさ。ボランティア活動をずっとやってる人が出てきてさ。誰かの役に立つために生まれてきたって言っててさ。自分のためじゃなくて人のために生きるって、いいことじゃないの」
そうじゃない。そう広田は思うものの、そのTVは広田も見ていて、素直に感動すらしていた。それとこれとは違う。ということを説明できる言葉は広田からは出てこなかった。
「でもさ。本物が目の前に実際にいるのに、偽物を演じ続けることになるんだぜ。それって凄く難しくないか?」
それって辛くないか、と言いそうになり、辛いなら苦しめばいいと言い返されそうで表現を変えた。
「そうだね……」珍しく幸視は同意した。だが続く言葉はひどかった。「もう、見ないようにしないと……」
おかしい。おかしいおかしいおかしい。こんなのってない!
広田は怒った。いっときは二人を別れさせようと画策していたことも忘れて怒った。
好きな人を好きなままでいることすらできないなんて、こんな悲しいことはない。
だがこの考えを起こしているのは、〝好き〟をこじらせ過ぎた人物の魂だった。こじらせた代償が、次の人生で〝好き〟を奪われること。自らそれを捨てること。
「おかしいよ……」
しかし広田は、歯を食いしばったまま、説得する言葉はひとつも出せなかった。
とはいえ幸視が圭輔と暮らす日常は否応なく続いてゆく。
圭輔自身は、たまに思い出話に付き合ってくれれば、という言葉の通りセーブしているようだった。普段はなるべく親子として暮らしている。
だがやはりその思い出話となれば、話は合わなくなる――わけではなかった。滅多にそんなことはないのだ。
いかに柳川があらゆる手段を使って郁を見ていたか、それが裏付けられる形になった。
そして西沢が遊びに来るのもまた田村家の日常である。これは説明が面倒だった。
西沢はまだ、幸視が〝『自分が郁である』と打ち明けた〟ことを知らない。
そして幸視が〝『自分が郁である』と考えていた〟ことは知っている。
だが、『自分が郁である』はもはや事実ではない。つまり、今から西沢も込みで騙さなければ話が合わなくなる。
それが自分への罰だと思っても、それは幸視にとって大層気が重いものだった。
「西沢さん。僕、父さんに伝えたから」
まず、幸視はそれだけ言うことにした。何を伝えたかを言葉にしなければ、伝えたこと自体は事実なのだから改めて嘘を口に出さずに済む。これから盛大に嘘をつくにしても、ギリギリ嘘を避けられる表現があれば、それを採用したかった。
「そうか……」西沢は答えた。
「お前知ってたのか」圭輔が驚く。
「まあな。近すぎると話しにくいこともあるだろう」
確かに西沢は知っている。だが知っているのは一部だけで、全てを知っているのはこの場では幸視だけ。あとここにはいないけど広田だけ。花崎も知っていることだけは幸視は知らなかった。
「まあ、そうなったら話そうと思ってたことがあって。俺と圭輔は復縁することはないから安心してくれ」
「……安心?」しばらくずっと力をなくしていた幸視の目が少しつり上がった。「どういう意味?」
「いや、言葉通りの意味だけど……君が前に俺に訊いてきたように、昔付き合ってたのは今やここにいる全員が知ってるわけで。だから話そうって話で、そういう状態には戻らないよと」
「だから何で、僕が安心するの?」
「そこは、まあ奥さんなわけで。いやすまん、圭輔と君が恋愛するって話じゃなくて、それとこれとは別の話だと……」
「父さんはそれでいいの?」
「……いや俺も、復縁するつもりは全然……意思を改めて確認したのは初めてだけど……」
「でも、約束なんかしちゃ駄目でしょ。僕なんかと。二人の気持ちだけが優先でしょ」
「おい。自分のことをなんかなんて言うな。お前は大切な家族だぞ。お前の気持ちも当然考える」
「おかしいよ!」幸視が前世を知って憔悴してから一番の大声だった。「たとえ僕が反対しても二人の思うとおりにすべきじゃないか! 僕なんかの言うことを聞くな!」
「またなんかって言う! 俺たちは家族の幸せを、」
「僕は幸せになんかなっちゃいけないんだ!」
「何言ってる……?」
幸視は怒り、それは決意を翻させた。
「こっちに来て。今思い出したことがある」幸視は立ち上がり、足早に歩き出した。二人は幸視に当惑しながら続いてゆく。
行き先は圭輔の寝室だった。つまり、かつては夫婦の寝室だったところだ。
「まだ残ってると思う」
幸視は椅子を寄せて本棚の上に手を伸ばし、ごそごそとし始めた。そして拳を閉じた状態で腕を二人の前に突き出し、拳をゆっくりと開いた。
「さすがに動かないだろうけど――これは、柳川宏則が空き巣みたいなことをして仕掛けた無線の盗撮器」
二人は驚愕の表情を浮かべた。
「僕の前世は母さんなんかじゃない。僕の前世は柳川宏則。僕は幸せになんかなっちゃいけない」
二人はあまりの事実に硬直して、返す言葉を見つけることができなかった。幸視の瞳から涙が溢れ、それを二人が見たか見ないかのものすごい速度で、玄関に向かった。
ともかく幸視は、今はこの家にいたくなかった。靴を履き、行く当てもなく、幸視は外を彷徨い始めた。幸視はどこにも居場所がなかった。それも幸視が受けるべき不幸かもしれなかったが。
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