23 終わらせないといけない

 柳川宏則は小学校で初めて永野郁を見た。

 が、それから大学中退までの年数にかかわらず、話したことは一度もない。それでもずっと目で追っていた。

 好きという感情を自分に認めて、改めて見るとそれだけで郁は遠くなった。

 そして好きという感情を、郁も同じように持っているということをはっきりと理解した。理解というより、その目でありありと見た。柳川ではない他の誰かに、持っている。


 郁は柳川にとって、全く異なる世界の住人であると同時に、同類だった。届かないものに手を伸ばすこともできず、ただずっと見ているのだ。

 そう思うことができた時、自分と郁が一体化した錯覚に柳川は囚われた。


 その先にはいつも田村圭輔がいた。田村は友達の西沢と仲が良く、恋という発想すら無いように思われた。柳川は別にそんな人間を蔑むつもりはなかった。

 ただ、郁と同様に田村は全く異なる世界の住人で、郁と違って同類では全くなかった。たとえ太陽が西から昇る日が来ても、自分が田村になる日は来そうになかった。


 中学になり高校になってもその異世界ぶりも同類ぶりも変わらなかった。ただ郁は綺麗になっていき、柳川には昏い欲望が芽生えた。そしてその欲望を鎮める業を覚えた。鎮めると鎮めるだけ空虚になった。

 田村は相変わらず、恋を知らないようにしか見えず、柳川にはひどく不思議に思えた。

 田村は郁を見ていないのに二人の距離は近くなっている。それは一方的に、郁が縋り付いていることを意味する。相変わらず触れることができないのに、背後から距離だけは詰めてゆくのだ。柳川は全く距離を詰めることができないのに。

 そして何やら前を横切るのが腹立たしかった。田村は郁に興味はないのに、おそらく意識もしないまま、何も危害も加えない柳川の視線を妨害するのだ。

 腹立たしくとも怒ってはいけない。田村は何も悪いことはしていない。ただそこにいるだけだ。

 郁は、そこにいるだけで眩しい。ある意味田村も眩しかったが、その眩しさは全く異なっていた。美しさと無邪気さとは、その不快さがこんなにも違うものなのかと思いもした。


 怒りは、誰も悪くはない怒りは、自分の中で飼い殺すしかなかった。


 大学まで一緒だった。聞き耳を立てて志望校を故意に合わせたからだ。だが大学というところは、常に同じ教室にいるとは限らない場所だった。ますます柳川と郁の距離は遠くなり、郁と田村の距離は近くなり、田村は郁を見ていない。

 柳川が自分の中に飼っている怒りは、極めて強度の強いものになっていた。表にこそ出さないが、放射性廃棄物に適当な蓋をあてがっているようなものだった。


 誰にも知らせず、ただブログを書き始めた。見たことをずっと記録しておこうと思った。


 誰も悪くはない。誰も悪くはない。誰も悪くはない。

 でも誰も結ばれない。何も動かない。


 溜め込んだ怒りの情動はある日、何かを動かさせた。紙片を郁の前に落としたのだ。もし郁が拾わなければ回収するつもりだった。


 誰にも教えていないURLにアクセス記録がある。これは郁が閲覧したことを示していた。

 郁が苦しむことはわかっていた。柳川自身が苦しめていることもわかっていた。だが何かが動かないことには何かも変わらなかった。変わらないという、窒息しそうな、在ることがやがて死に至らしむような、無邪気に絞められた首のごときもの。頸動脈からの脈動はわずかな抵抗しかなく、しかしその抵抗はいつか、解き放たれなくてはならなかった。


 状況は変わり始めた。変わらないことは死んでいることだったので、変わるということは生きていた。郁は同類で、柳川は同じ心だと感じて、郁の苦しみは柳川の苦しみだった。

 だが一心同体だと思い上がるつもりはなく、柳川の苦しみは郁の苦しみではないことを柳川は自覚していた。その自覚が自身を正当化していた。


 柳川は郁の苦しみを受け取りつつ、自分には自分だけの苦しみを誰かに与えてほしかった。そう思っていたらある時、柳川の後頭部に強い痛みが走った。それは柳川だけの痛みだった。血が流れた。ああこれでいい、と思った。柳川は笑っていた。

 ただもっと見続けたいと思った。変わることを求めたのに変わらず見続けることを望むのは矛盾だったが、そんなことに気づく力は失われていた。見続けるためにいったんは咄嗟に画像を消した。病院に運ばれ、手当を受け、帰宅してすぐブログも消した。


 何かが変わってしまったら、変えたいと願う者は存在する意味がなかった。存在をなくすには生物としての本能が邪魔をした。本能が徐々に理性を別のものに置き換えていった。

 

 存在するためには、見続けるしかなかった。理性は失われていたが、見続けるという目的のための条件つきの理性はかえって研ぎ澄まされていった。その条件付きの理性は、面が割れすぎて学生のまま見るのは困難だと判定して、退学を選ばせた。退学したまま変装して学内に忍び、見続けた。


 おかしくなってゆく柳川を、両親はどうすることもしなかった。父親は仕事に逃げて、母親はおろおろと、柳川自身と同じようにただ見続けることを選んだ。気がついた時にはすでに、簡単に何かをできる様子ではなく、そのまま様子を見続ける選択が状況を悪化させ続けていた。


 父親は柳川の視界になく、母親は視界の端のほうにあって、子供のころ大好きだった母親は、ただ柳川が自分自身を恥じるためにいた。恥じることを免罪符として、見続けることを選んでいった。


 そういう状況が何年も続き、あるいは五年か、十年か、もはや柳川に正確な時間を数えることはできなかった。両親はいつ止むとも知れぬ嵐を、希望も持たず、ただ一日を生き抜くだけを考えて生きた。

 柳川は郁の声を聞き、圭輔の声を聞き、姿を見た。実際に見ることも家に居ながらに見ることもあった。結婚式に潜入すらした気もしたが定かではなかった。見聞きしたものは、それが現実であるか、幻聴であるかの区別もできず、ただ少しだけまだ微かに生き残った理性が、これを終わらせることを、微かに願い、その微かさが、たまに、ごくたまに頭をもたげ、ある日、奇跡のように、もたげて、たかい、たかい建物の上に、やっとのことでのぼりつき、また見続けるほうの理性が、地上に押し戻そうとするのを、さいごのさいご、ようやく頭の中で格闘した、圭輔のように殴りつけた、そんなたたかいが、とうとう、からだを空中に、はこんで、はこんで、ついに、


 さいごのいたみが、


 はしって、


 まちには、たまたま流行遅れの恋の歌が流れ、



 新しい命が、宿った。

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