22 ゆるされない

 絵梨と幸視は屋外を歩いていた。


 その少し前、絵梨が幸視の母親を狙っていたストーカーのことを説明されてとても辛そうな顔をして、幸視は告白どころではなくなった。

「世の中にはそういう人がいるんだね」絵梨はうつむいたままだった。「許せない」


 今までずっと、好奇心で、傍観者的に幸視に興味を寄せていた絵梨が、ここまで感情移入してくるのを幸視は初めて見た。

 ロマンスではなくサスペンスに共鳴しやすいのかな、などと幸視は思った。父親の相手が、西沢から幸視の母親に移った顛末をこれだけ知りたがったのは、ロマンスの匂いではなくサスペンスの匂いを嗅ぎ取ったということなのか。


 しばらくうつむいて無言だった。そして絵梨は立ち上がって窓を開けた。微風が絵梨の頬を撫で、そこから後ろに回った風が幸視にも触れて抜けてゆく。


 幸視は、いつもにも増して絵梨が綺麗だと思った。絵梨は振り向いて言った。

「外の風に当たりたい」


 外に出ても、好奇心旺盛だったはずの絵梨の言葉は、あまり明るいトーンのものではなかった。

 ストーカーという人種を非難する言葉は、とても強かった。それを幸視の目を全く見ずに言うのだ。

 もしかしたら、絵梨は男性全般を信頼していないのかもしれない。だから幸視の目を見ないのだと思えば説明がついた。

 外に出たのは、幸視の目を見ないで批難の言葉を発し続けるためではないか。歩きながら話せば、進行方向を見ていればそれほど不自然ではない。


 そういうことで説明をつけていると、ますます幸視は告白どころではなくなっていった。


「そういうのはさ。逮捕したらGPSを生体に埋め込んで一生監視したほうがいい」

 絵梨は考えうる最大限強い言葉を投げつけているようだった。


 幸視にとって、笑顔もチャーミングだった絵梨という存在が、今はとても怖かった。


「てか、逮捕されたの?」

「警察に届ける知恵があれば良かったって、父さんが」

「そんなのおかしい」

 ストーキングの概念がまだ普及していなかった時代背景を説明して、納得して貰えるとも幸視には思えなかった。

「せめてそんな奴は自殺してほしい」

 そう言われて初めて幸視は気がついた。その柳川という人は、若くして死んでいなければ今も普通に生きているのだ。幸視は背筋が寒くなった。


 今せっかく、絵梨と二人で歩いているというのに、少しも楽しくはない。

 家に帰ってしまおうか――。

 そんな意識が、幸視の頭の片隅に生まれた。だがそれは半分無意識のような感覚だった。半分は意識しているので、自覚しているのかしていないのかよくわからない、感覚だった。


 不快にさいなまれたせいなのか、今の幸視の身体感覚は、妙なものだった。それは夢に似ていた。夢ということは、前世の記憶がまた補充されるということだ。

 目の前に現実の景色が広がっていながら、記憶の、情報の流れを幸視は見た。感じた。現実の景色も見ているのか心で感じているのか曖昧になった。

 白昼夢というのか――現実と夢が、つまり現在と過去が、あやふやになっていた。


 気分が悪い。帰ろう。おうちに帰ろう。母さんのいる、おうちに帰ろう。


 母さん? 幸視の家に母さんがいるはずがない。ここは現実、ここは現在。なぜ母さんという言葉が浮かんできた?


 おうちに帰ろう。


 幸視はある家の前で立ち止まった。おうち?

 これはどう見ても幸視の家ではない。

 時々遊びに行く、母方の祖父母の家でもない。


「どうしたの? 田村」幸視を見た絵梨は心配をした。それは怒りに満ちたさっきまでの絵梨ではなく、普段の幸視の目に映る表情だった。だがその表情を受け取る余裕もなくなっていた。


 幸視の意識は、少し現世側に寄り、理性をもって事態を把握した。

 しかしその事態は――。


 そうか。そういうことだったのか。幸視は動揺しつつ、必死でその結論を受け止めようとした。


 事細かに、母親の記憶があったのは、母親だったからじゃない。

 母親を、見ていたからだった。ずっと事細かに、見ていたからだ。


〝お前は胎児の時はずっとからっぽの容れ物だったことになる〟


 広田の言葉は今こそ辻褄があう。親子で同じ魂を共有するなどという、そんな矛盾は初めから存在しなかった。

 幸視の母親は、最も宿してはならない魂を宿してしまったのだ。


 そんな汚れた魂が、女の子を好きになる?

 許されるはずがない!

 あまつさえ、その子はそんな人種に嫌悪と怒りを露わにしている。好かれる見込みも、資格も、万にひとつもありはしなかった。


「ああァ……!」幸視は叫び声をあげた。まるで子供が生まれる時みたいに。

 だが何度生まれ直してみても、その罪が許されるはずはなかった。


 幸視はその場にばったりと倒れた。

「田村! どうした! しっかりして!」

 しかしまだ絵梨は子供で、これ以上何をすればいいか皆目わからなかった。

「誰か! 誰か助けて! 友達が倒れた!」


 駆けつけた大人が、手早く救急車を呼んだ。君は? 友達の名前は? クラスメイト?

 そんな問いに泣きながら答えた。


 幸視の中には、今まで入ってきていなかった残りの記憶が、一気に流れ込んできていた。いかに、どんな手段を使って、対象を見続けたのか。手段というよりは――手口、という言葉のほうがふさわしかった。

 そして――自ら命を絶った時の記憶、も含まれていた。


 だから幸視は生まれ変わることができた。命を絶ったから生まれ変わることができた。

 そして、死んでも治らない執着心が、現世への道を繋いだ。

 そして、もっとも執着した人の中に宿ったのだ。


 それは大罪だった。前世で犯した罪以上に大罪だった。


 救急車の中で、絵梨はずっと幸視を心配し続けていた。記憶の濁流に呑まれて、その隙間から垣間見える現世への僅かな視界にその顔が映った。

 

 幸視は、絵梨は何をばかなことをやっているんだろうと思った。こんな人間のために流すような涙なんて、ありはしないのに。


 幸視がその前で倒れた〝おうち〟の表札には、こう書かれていた。

 〝柳川〟

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