第66話 足利義維への不信と足利義晴の御内書攻勢
5月になっても、四国若君は上洛すること無く、堺に留まり続けていた。
京の都の下京辺りでは、盗賊が彷徨っているそうで、治安が悪く物騒だそうだ。
公家たちの間では、南方武家の四国若君は上洛せず、江州武家の足利義晴も入洛しないことから、公方が京都にいないせいで治安が悪化しているのだと囁かれている。
都では、細川六郎方が当初は成敗を厳重にしていたが、現在は成敗が厳重どころか、成敗するはずの公方が都にいないと不満が高まっていた。
細川六郎方では動きが見えないものの、足利義晴は、引き続き積極的に公方として活動をしている様だ。
3月には、越前国の朝倉孝景を幕府御供衆へ任命することが内定したそうだ。
4月に、甲斐守護の武田信虎に宛てて、上洛の要請をしたとの噂まで流れている。
足利義晴の御内書発給は、軍勢の催促だけで無く、山名誠豊と山名豊治の和睦仲介、桂川原合戦で戦死した日野内光の子の日野晴光への所領安堵なども行われていた。
琉球国の世之主とやらにも御内書を発給したと言う噂だが、詳しいことは分からない。
そして、足利義晴は後柏原天皇の一周忌で香典料を納めていた。
足利義晴は公方としての行動を取り続けることで、自身が正統な公方であることを主張し続けているのだ。
その様な中で、6月17日に四国若君は、朝廷に対して、従五位下・左馬頭への叙任を請願した。左馬頭の官職は、足利将軍家の家督継承者、あるいは後継者が任じられる官職であり、足利義晴も将軍就任前に任官されている。
7月13日、四国若君は朝廷から従五位下・左馬頭に叙任された。この叙任によって、四国若君は、将軍就任の前提を得る形となったのである。そして、四国若君は、東坊城和長の撰進によって、名を「義賢」から「義維」に改めたのであった。
足利義維は、左馬頭叙任によって、将軍を意味する「武家」、「公方」、「大樹」と呼称される様になる。都の公家たちや諸権門は、足利義維を「堺公方」「堺大樹」と呼ぶ様になった。こうして、畿内には事実上、二人の公方が存在することになったのである。
都の公家たちは、左馬頭叙任によって、今度こそ、足利義維は上洛をするだろうと期待をしていた。しかし、足利義維は左馬頭に任官しても、一向に上洛の気配を見せることはなかったのである。
足利義維の左馬頭叙任までの間も、近江国の足利義晴の公方としての活動は続いていた。
4月に送った武田信虎に対する上洛要請に伴い、6月には関東管領上杉憲寛、諏訪頼満、木曾義元に対して、信虎の上洛を支援する様に御内書を発給したそうなのだ。
足利義晴は武田信虎の上洛に対して、本気であることが窺える。武田信虎が本当に上洛する気があるのかは、分からないが。
足利義維と足利義晴の動きの違いに、公家たちは四国若君に対して不信を抱く様になっていった。足利義維の出自を疑う者のすら現れている。
足利義維は、足利義澄の次男として、近江国蒲生郡の水茎岡山城で誕生したそうだ。母は斯波氏の女性らしく、生まれて間もなく、阿波細川氏に預けられたらしい。
しかし、これらの出自は噂か何かで、本当のところは不明である。公家たちの誰も、足利義賢を知らないのだ。
公家の中には、足利義澄の子息かどうかすら怪しいと言う者までいる始末だ。公方と名乗っているが、誰の子なのか誰も知らないと噂され、自称公方の胡散臭い奴と認識されつつあった。
一応は、足利義稙の後継者と目されている様で、義稙の猶子になったとの話も聞こえている。現に、足利義維の周辺には、足利義稙の奉行人たちが仕えていた。斎藤時基、斎藤基速、義稙近臣畠山順光の子畠山維広など阿波国に遺された足利義稙の側近たちを継承していたのである。
そのため、足利義維は、前年の12月には、斎藤基速と斎藤誠基を中心に、松田光綱、松田光致、飯尾為隆、治部直前などの足利義稙から引き継いだ奉行人たちによる、奉行人連署奉書を発給していた。足利義維は、足利義晴と同様に畿内の支配にあたろうとしてはいたのだ。
足利義維は、上洛することはなかったが、都を支配するため、奉行人連署奉書を発給し、各種の訴訟や嘆願に対応してはいたのである。効果があったかどうかは分からないが……。
足利義維が上洛しないのは、近江国に足利義晴がいるため、上洛しづらいからとの話も上がっている。
また、6月頃には、足利義晴と足利義維の和睦が相談されているとの噂が、公家たちの間で流れていた。
足利義晴・足利義維の両陣営は、ともに情勢を様子見しているのかもしれない。
公方としての正統性についても、足利義維は公家たちなど都の人々に怪しまれているのに対して、足利義晴は実際に公方になっており、実績があるのだ。没落したとは言え、足利義晴の方がが正統な公方であると見る者たちの方が多い。自称公方よりは支持しやすいのは確かだろう。
安定しない都の情勢や自身の正統性の弱さが、足利義維の上洛を見送っている一因ではあるとは言えるかもしれない。
足利義晴が諸国の武家に対して御内書を発給し、軍勢の催促をしている様だが、どういったところに送っているかの噂が流れている。思ったより多くの御内書を発給していた様で、少し驚かされた。
畿内周辺だと、越前国の朝倉孝景、美濃国の土岐頼芸、河内の畠山稙長、播磨国の赤松義村、但馬国の山名誠豊などの守護などに送っていた様だ。遠くは豊後国大友義鑑にまで上洛を促している。
美濃国は守護の地位を巡って争っている最中であるが、土岐頼芸方が優勢な状況だ。足利義晴から御内書を発給されたことで、公方から実質に美濃国守護として認められたと言っても良いのかもしれない。
守護だけで無く、摂津国人の伊丹元扶や阿波国人の海部元親にも御内書を発給していた様だ。阿波国衆である海部元親に忠節を命じているのは驚いたが。
土佐国の一條房家に対して、阿波国を攻めるよう命じていたとか。
京の都を支配したのは、足利義維を擁した細川六郎の家臣であり、義維自身の支配体制は脆弱であった。都は古来より、攻めやすく守りにくい地である。足利義晴陣営が近江国に存在し、奪還される可能性も高い。
足利義晴の御内書発給などによって、周囲を脅かされる中、足利義維や細川六郎の上洛は難しいと判断されたのだろう。
軍事的には、足利義維・細川六郎方の優勢ではあるものの、政治的には足利義晴方にやや傾きつつある状況なのであった。
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