あらぶる ~猫のいない世界で【猫】という天職に目覚めました~

空知音

第一章 交易都市タイラント編

呪われた天職

第1話 呪われた天職



 ナリアス大陸南東部に位置する、小都市タイラント。

 温暖な気候に恵まれたこの街は、南に大洋を臨む小高い丘の上にある。古くは漁業で栄え、今は魔道船による海洋貿易の中継地として栄えている。


 春の朝、まだ人もまばらな坂道を、小柄な少女が駆けていた。薄汚れた茶色いローブのフードからは、彼女が吐く白い息が煙のようにたなびいている。


「はあはあ……天職をもらう大切な日なのに、なんで寝坊しちゃったんだろ。急がなくちゃ!」


 履き古した革サンダルが石畳を踏む、ペタペタという音が次第に早くなる。

 そして、ローブのすそを自身で踏んずけ、見事に転んだ。

 小さな体が石畳の上をころころ転がり、馬車避けの縁石にぶつかり、やっと止まった。


「ふきゃう! イタタ……でも、負けないんだもん!」


 ぱっと立ちあがった少女は、まるで何かと戦っているかのような口ぶりだった。

 ローブを汚してしまった埃も払わず、擦りむいた頬を手の甲で拭うと、弾かれたように駆けだす。

 めくれたフードから現れたのは丸みを帯びた愛嬌のある顔で、カールしたブロンドの髪がそれを柔らかく縁どっていた。くりりとした大きな目には、少し涙が溜まっている。

 小さいが形の良い鼻の下では、ふっくらしたピンクの下唇が、まっ白な前歯にきゅっと噛みしめられていた。

 十二というその年よりかなり幼く見えるのは、童顔と小柄な体のせいだろう。


 少女の名前は『ニャウ』、この街の孤児院で育った少女であり、これから始まる物語の主人公である。

 やがて彼女の行く手に、街の中心である円形広場が現れる。そのすぐ向こうには、少女の目的地である壮麗な精霊教会がそびえている。屋上には立派な鐘楼が天を衝き、朝日にきらめいていた。


 ◇


 四の月を迎えたこの朝、街の中央地区にある精霊教会では、祭礼用の広間に子どもたちが集められていた。

 この季節だとまだ肌寒いはずの時刻だが、室内にはこれから始まる儀式を待ちわびる少年少女の興奮が渦まき、熱せられた空間は彼らが少し汗ばむほどだった。


 金糸銀糸で飾りつけられた、目にも鮮やかな青い服を着こなしているのは貴族の子どもたちだ。こざっぱりした、黒い儀式用ローブを身につけているのは豊かな商人の子だろう。粗末な茶色いローブを羽織っているのは、貧民地区スラムの子どもたちに違いない。

 この一年で十二才の成人を迎えた街の子どもたちが、それぞれの胸に期待と不安を抱き、ここに集っていた。


 いつもなら精霊に祈りを捧げる信者たちのために長椅子が並んでいる広間だが、それらは全てどこかにかたづけられ、少年少女は立ったまま儀式が始まるのを待っていた。

 この国ではブロンドの髪色を持つ者が多い。黄金色こがねいろの頭で埋め尽くされた広間は、収穫前の麦畑を思わせた。   


 これから始まる儀式に緊張してのことか、はたまた気難しいことで有名な老齢の神父が祭壇の前に現れたからか、子どもたちで埋めつくされた広間から、潮が引くようにざわめきが消えていく。

 黒い祭壇の向こうに立つ神父が、手にした白木の長杖でコツコツと床を鳴らす。その音が広間に響くと、子どもたちの肩が一斉にぴくりと震えた。

 低く、しわがれた老神父の声が、威厳ある響きとなって広間に満ちた。


「お早う、今日の日に成人を迎えるタイラントの若人たちよ。

 知っている者もいるだろうが、ワシの名はロスペナ、もう三十年ほどは、この教区をまかされておる。

 諸君にとって、今日は特別な日じゃ。精霊様から、恩寵である天職をたまわるのじゃからな。


 ただし、心せよ。【剣士】の天職を望んだものが【剣士】を授かるとはかぎらん。もしかすると【農民】に覚醒するやもしれぬ。


 よいか、たとえそのようなことになろうと、決して嘆くでないぞ。 

 どのような職に覚醒したとしても、精霊様から授かったそれこそが、そなたらに最もふさわしい天職なのじゃ。


 深き御心みこころで我らをお守りくださる精霊様に、心からの感謝をささげたてまつるのじゃ」


 子どもたちが揃って頭を下げ、胸のところで手を握りあわせる。

 誰一人、祈りの文言を口にしないのは、精霊に捧げる祈りは言葉にしてはならないと信じられているからだ。

 神父が再び杖で床を鳴らすと、子どもたちが頭を上げた。

 誰の目も、よい天職が授けられますようにという願いと期待で輝いていた。


「それでは、これより【覚醒の儀】を始める」


 よく通る神父の声が祭礼用の広間に響く。子どもたちは高まる期待と不安から体をこわばらせた。

 名前を呼ばれた子どもが、一人ずつ祭壇の前まで行き、その上に置かれた水晶柱に手をかざす。すると宙に白い文字が浮かびあがる。天職を表すその文字を老神父が読みあげると、子どもたちは様々な表情を見せた。

 天職をもらい喜びを表す者が多かったが、肩を落とす者も少なくなかった。誰しもが想い描いた天職につけるとは限らないのだ。


 そんな中、薄汚れた茶色のローブを身にまとう、小柄な少女が祭壇の前に立った。荒い呼吸に肩のところで切りそろえたブロンドの巻き毛がふるふると震えているのは、儀式に間にあわせようと教会まで駆けつけたからだけではないようだ。

 極度の緊張から、大きく見開かれた目には、琥珀色の瞳が揺れていた。

 彼女は、自分が望む天職を呪文のように小声でくり返していた。


「剣士、剣士、剣士……」


 ところが、老神父によって告げられた天職は、彼女の願いとかけ離れたものだった。


「レイファント孤児院ニャウ。

 そなたの天職は……なんなのじゃこれは? 天職が【猫】じゃと?」


 神父だけでなく、少女の顔にも戸惑いが浮かぶ。

 少女が授かった天職は、彼女だけでなく神父さえ一度も耳にしたことのないものだった。


 


 タイラントの街周辺どころか、ナリアス大陸のどこにも猫などというものは存在しなかった。

 大陸の北方辺境には獣人族である「猫人」が住んでいるが、その呼称もかつて異世界からやって来た勇者が残したものだと言われている。誰一人、『猫』という存在を見た者がいないのだ。

 想像上の聖獣とみなされている『猫』は、猫人族の見かけから、三角耳や長い尻尾を持つとされてきた。


 ともかく、少女ニャウが手に入れた【猫】という天職が、ひどく珍しいものであることだけは、まちがいなかった。

 だが、それを知った子どもたち、特に自分が望む天職を得られなかった者にとって、稀有な職であるというそれだけで、不満をぶつけるのに恰好の標的だった。


「けっ、なんだよ、あいつ。猫人でもないくせに【猫】だって? そんなの天職の名前なんかじゃないよ!」

「それって魔獣の名前じゃないの? すっごく不吉だよね」

「絶対ハズレ職だぜ、あいつ」

 

 ニャウに心無い言葉を投げつけたのは、子どもたちばかりではない。

 一人の若い神父がカツカツと靴のかかとを鳴らし少女へ近づくと、長身をかがめ彼女の耳元に口を寄せ、小さな、けれどはっきりした声でこう告げたのだ。


「おまえか、【猫】などという天職を得たのは。神をも恐れぬ、呪われた天職だな」

 

 悪意に満ちたその言葉は、世間を知らぬ気弱な少女の心を鋭い棘のように刺しつらぬいた。

 愛嬌があるその顔を凍りつかせ、うつむいたまま小さな体をふるふると震わせる。


 彼女には、良い天職を得て冒険者としてお金を稼ぎ、自分を育ててくれたシスターや孤児院の子どもたちの力になりたいという強い願いがあったのだが……。

 少女が幼い頃から心待ちにしていた『覚醒の儀』は、かくして彼女の繊細な心に深い傷痕を残すことになった。


 そんなニャウの気持ちには関係なく、壇上では老神父によって次々と名前と天職が読みあげられていく。その中には、同じ孤児院の仲間たちのものもあったのだが、今の少女には、それに耳を傾ける余裕さえなかった。


 肩を落とし、うつむく少女を憎々しげに見つめるのは、つい先ほど彼女に理不尽な言葉をぶつけた若い神父だった。

 ペスタッチという名のこの青年は、口の端を少しだけ上げ、神父とも思えぬ邪悪きわまりない笑みを浮かべていた。そして、なにかに急かされるように広間を後にした。

 青年にとって信仰の対象とは、みなが崇める精霊などではなく、たった今その目で見たことを報告する相手、『主様あるじさま』ただ一人なのだ。

 その懐中には、一匹のねずみが棲みついており、【使徒】である彼は、この小さな生きものを通して、遠く離れたところにいる主と言葉を交わすことができるのだ。

 報告の内容はすでに決まっていた。

 

―― 天職【猫】を得たものが、タイラントの街に現れた ――


 驚くべきことに、ペスタッチ青年は、この報告をするためだけに幼い頃から精霊教会に仕え、神父にまでなったのだ。

 同じ目的で大陸中の精霊教会に潜伏している多くの同朋たちの中で、自分独りが報告の栄誉を手にすることができた喜びは、やがて心の底からあふれ出し、この青年を狂おしいほどに満たすのだった。


 ◇


 さて、身寄りのない一人の少女が【猫】という珍しい天職を授かった。このことが、波乱と冒険に満ちた物語の始まりとなるのだが、そのことを知る者はいまだ誰もいない。


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