第38話『氷織先生のクロール講座』

 ウォータースライダーは怖いけど、滑る度に楽しいと気持ちが膨らんでいって。俺もウォータースライダーにハマり、俺達は2人乗りの浮き輪で3回、1人乗りの浮き輪でも1回滑った。


「ウォータースライダー楽しかったですっ!」


 計4回滑ったからか、氷織は満足そうな笑顔になっている。氷織の絶叫系好きを再認識したよ。

 施設内に設置されている時計を見ると、今は午後3時40分。この時間なら、帰るまでの間にウォータースライダーをまた滑るかもしれないな。


「明斗さんはウォータースライダーどうでしたか?」

「楽しかったよ。スリルや怖さもあったけど」

「ふふっ、そうですか。楽しめたのなら良かったです。4回滑りましたけど、体調はどうですか?」

「大丈夫だよ。並ぶのがいい休憩になったから。疲れもそんなにない。氷織はどう?」

「私も大丈夫です。疲れもあまりありませんね」

「そうか。良かった」


 氷織もあまり疲れていないから、またどこかのプールに入って遊ぶか。レンタルコーナーにはビーチボールもあるので、それを使うのもいいかもしれない。そんなことを思いながら周りを見てみると、25mプールがすぐ近くにあることに気づく。


「……そうだ。あのさ、氷織」

「何でしょう?」

「流れるプールに入っているとき、氷織は結構泳げるって話してたよね」

「はい。話しましたね。今でも、どの泳ぎも25mくらいは泳げるかと」

「そうか。その話を聞いたら、泳いでいる氷織の姿を見てみたいと思ってさ。ここに25mプールもあるし。一番得意な泳ぎだけでもいいから見せてくれないかな。お願いします」


 俺は氷織に軽く頭を下げる。


「そんなにかしこまらなくていいですよ。明斗さんが見たいと言ってくれて嬉しいです。この25mプールで泳ぎましょう」

「ありがとう、氷織」

「いえいえ。ただ、泳ぎますので、更衣室へ水中メガネを取りに行かせてください」

「もちろん。俺も水中メガネを取りに行こうかな。泳ぐかは分からないけど。一応持ってきているんだ」

「そうですか。では、一緒に取りに行きましょう」


 俺達は一旦、屋内プールを後にする。

 男子更衣室へ行き、俺はロッカーから持参した黒い水中メガネを取り出す。また、少し喉が渇いていたので、バッグに入っていたスポーツドリンクを一口飲んだ。

 更衣室を出ると、女子更衣室からほぼ同じタイミングで氷織が姿を現した。氷織の右手には青い水中メガネが。


「同じタイミングでしたか」

「そうだね。ちょっと喉渇いたから、持ってきたスポーツドリンクを一口飲んだんだ」

「明斗さんもですか。私も持参した麦茶を一口飲みました。遊びでも体を動かしましたからね。それで汗を掻いたのかもしれません」

「きっとそうだろうな。じゃあ、25mプールへ行こうか」

「はいっ」


 俺達は手を繋いで、再び屋内プールに入り、25mプールへ向かう。

 学校にあるようなプールだからだろうか。それとも、コースロープによってコースごとに区切られているからだろうか。流れるプールや普通のプールに比べて、25mプールに入っている人はほとんどいない。今は2人の人が泳いでおり、プールサイドで女性が見守っているだけだ。

 氷織は静かに一番端の8コースの部分に入る。


「では、クロールを泳ぎますね。一番得意な泳ぎというリクエストでしたので」

「うん、お願いします」

「分かりました」


 氷織は水中メガネを装着し、スタート地点に立つ。競泳水着やスクール水着姿じゃないけど、氷織が水泳選手に見えてきた。


「じゃあ、いきまーす」


 右手を挙げてそう言うと、氷織はプールに顔をつけ、側面を蹴伸びする。

 蹴伸びだけでも、氷織はすーっと前に進んでいく。蹴り方がいいのかな。それとも、体がピンと真っ直ぐになっているからかな。そんなことを考えながら、俺は氷織の横を歩いていく。

 半分くらいまで蹴伸びで進むと、氷織はクロールで泳ぎ始める。

 ストロークやバタ足の仕方がいいのだろうか。クロールになっても、氷織の体はどんどんと前に進んでいく。定期的に息継ぎをちゃんとしていて。凄いなぁ。

 25m泳ぐと、氷織はターンをしてクロールを泳ぎ続ける。中3のときは50m泳げると言っていたから、同じ長さ泳ぐつもりなのだろう。

 それにしても、氷織の泳ぐフォームは見惚れてしまうほどに綺麗だ。男女問わず、泳ぎの得意な人って、みんな綺麗に泳げるのだろうか。

 氷織は途中で一度も立ち止まることなく、クロールで50m泳いだ。スタート地点にタッチして、氷織は泳ぎ終わった。水中メガネを外して「はあっ、はあっ」といつもよりも激しく呼吸する姿は有名な水泳選手のような風格を感じさせる。

 氷織はこちらを向くと爽やかな笑顔を見せる。


「今でもクロールは50m泳げました。久しぶりに泳ぎましたけど、気持ちいいですね」

「良かったね。いやぁ、歩きながら氷織を横からずっと見ていたけど、50mずっとスイスイ泳いでいたね。泳ぐ姿も綺麗だったし、見事な泳ぎだったよ。凄かった! 見せてくれてありがとう!」


 俺は氷織にそんな賞賛の言葉を言い、彼女に向かって拍手を送る。こんなに素敵な泳ぎを見せてくれるなんて。頼んでみて正解だった。

 俺が感想を言って拍手をしたからか、氷織の笑顔は嬉しそうなものに。


「褒めてくれてありがとうございます。息継ぎの方向もあって、後半の25mで息継ぎをするときは明斗さんの姿が見えていましたよ。50m泳げると言ったので、50mちゃんと泳ぎ切りたいと思って泳いでいました」

「そうだったんだね。確かに、後半は息継ぎのときに俺の方を向いていたな。定期的に息継ぎできていて凄いよ。俺は息継ぎが上手くできなくて。それで、脚も沈んじゃってすぐに立っちゃうんだ」

「そうなんですね。息継ぎは大事な要素ですが、苦手な人はいますよね。もしよければ、クロールの泳ぎ方を教えましょうか?」


 氷織は優しい笑顔を浮かべながらそう言ってくれる。

 クロールの泳ぎ方か。クロールだけでも泳げたら、プールや海で遊ぶ幅が広がりそうだ。氷織と一緒に泳げたら気持ちいいんだろうな。泳いでみたい。

 それに、さっきの氷織の泳ぎ方は凄く上手だったし、普段の勉強も質問すると分かりやすく教えてくれる。氷織の教えがあれば、俺もクロールを泳げるようになるかもしれない。


「じゃあ、お願いします。クロールを25m泳げるようになりたいです」

「分かりました。まずは明斗さんが今、どのくらいクロールを泳げるのかを見たいです」

「分かった」


 氷織と入れ替わる形で、俺は25mプールに入り、スタート地点に立つ。持ってきた黒い水中メガネを装着する。


「では、明斗さんなりのクロールを見せてください」

「はい。行きます」


 俺は顔を水面に付けて、両足でプールの側面を蹴伸びする。

 プールの側面や底にもラインが引かれている。なので、それを見ると蹴伸びで前に進んでいることは分かる。

 蹴伸びでの前進が終わったので、俺はクロールを始める。

 両脚でバタ足をして、両腕でクロールのストロークをしていく。

 蹴伸びのときと比べて、前に進む速度が格段に下がった。全然進んでない。きっと、これじゃダメなのだろう。

 そんなことをしているうちに息苦しくなってきた。息継ぎをしようと水面から顔を出すが、息を全然吸えずに水を飲んでしまう。その際に姿勢も崩れてしまって。

 結局、苦しさからは解放されずに、その場で立ち止まってしまった。


「けほっ、けほっ……」

「大丈夫ですか!」


 氷織はすぐに俺のところまで駆けつけて、俺の背中をさすってくれる。


「うん、大丈夫。水を少し飲んじゃっただけだから。ありがとう。やっぱり息継ぎできなかった。中学までもこんな感じだったんだ」

「そうだったんですね」


 あまり泳げないと伝えていたし、氷織からクロールの泳ぎ方を教わるためだとはいえ、こんな姿を恋人に見せてしまうとは。何だか情けない気分に。


「泳ぎを見ていましたが……蹴伸びは良かったと思います。ただ、そこからですね。ストロークとバタ足も動きが良くなかったので、前に進んでいませんでしたね。それで、息継ぎも上手くできていなかったので、姿勢が崩れて体が沈んでしまいましたね」

「……そうか」


 泳いでいたときからそんな自覚はあったけど、実際に言葉にされると心にグサッとくる。しかも、恋人の氷織から言われると。蹴伸びが良かったと言われたのはせめてもの救いか。でも、俺の抱える問題点なのでちゃんと向き合わなければ。

 情けない泳ぎを見せてしまったが、氷織は優しい笑顔で俺を見てくれる。


「バタ足と手の動かし方と息継ぎの仕方。それらを一つずつ改善していきましょう」

「分かった。よろしくお願いします、氷織先生」

「ふふっ、氷織先生ですか。任せてください。明斗さんがクロールを泳げるように、先生が丁寧に教えていきますね!」


 楽しそうな様子で氷織はそう言ってくれた。

 そして、氷織先生によるクロールの指導が始まる。


「まずはバタ足の練習からです。お尻から脚を動かすのがポイントです。膝を曲げないように気をつけましょう」

「分かった」


 そして、氷織に両手を持ってもらって、顔を上げた状態でバタ足の練習をしていく。氷織から教えてもらったポイントと注意点を意識しながら。


「そうですよ、明斗さん。上手です。この感覚を覚えましょう」


 そう言う氷織はとても楽しそうで。自分の言ったコツや注意点通りに俺が脚を動かせているからかな。それとも、俺に泳ぎを教えながら、俺の両手を持っているこの状況がいいと思っているのか。どちらもありそうだ。

 脚の動かし方を覚えたところで、バタ足で泳いでみることに。

 すると、さっきとは違って、体がどんどん前へ進んでいく。


「おおっ、凄く前に進んだ! 流れるプールのときほどじゃないけど、どんどん体が前に進んでいったよ!」


 自分の泳ぎだけでスイスイと前に進めるなんて。初めての感覚なのもあって感動すらある。

 俺の泳ぎが良くなったからか、氷織は笑顔で拍手をしてくれる。


「脚の動きがとても良くなりましたね! ですから、明斗さんの体もスイスイと前に進むようになったんです」

「そうなんだ。氷織の教え方が上手なおかげだよ。ありがとう」

「いえいえ、私はそんな。練習して動きを改善できる明斗さんが凄いんですよ。では、この調子でストロークと息継ぎの練習もしていきましょう!」

「はい!」


 それからも、氷織の教えでクロールのストロークと息継ぎのコツを教わっていく。

 息継ぎは、水泳での基本的な呼吸法から教わった。たまに、氷織のお手本の泳ぎを見せてもらいながら。

 クロールのストロークは肩甲骨から大きく腕を回すとよく、息継ぎはストロークと連動し、腕を入水するときに顔を出して呼吸するのがポイントだそうだ。

 ポイントを意識しながら練習する。動きが改善されると氷織は、


「いいですね!」


「良くなっていますよ!」


 などとたくさん褒めてくれて。教わる前と比べると、格段に動きが良くなっているのも自覚して。教えてくれるのが氷織だからかもしれないが、俺は褒められて伸びるタイプなのかも。


「バタ足もストロークも息継ぎも良くなりましたね。では、総仕上げとしてクロールを25m泳いでみましょうか」

「うん、やってみよう」

「では、私が横から応援していますね」

「ありがとう。心強いよ」


 俺はスタート地点に立って、何度か深呼吸をする。


「……よし。じゃあ、行くよ」

「はい。頑張ってください」


 氷織の目を見て首肯し、俺プールには顔をつける。

 プールの側面を蹴伸びして、クロールを25m泳ぐ挑戦が始まった。

 蹴伸びについては最初に泳いだときのように、すーっと体が前に進んでいる。

 ただ、蹴伸びによる前進も半分の手前当たりで止まる。ここからが本番だ。

 両脚はお尻から動かすようにする。

 ストロークは肩甲骨から大きく回すようにする。

 息継ぎはストロークと連動して、腕が水に入るときに顔を出して呼吸する。

 氷織から教わったコツを心がけながら泳いでいく。

 最初に泳いだときは、前に全然進まなかったのに、今は前にスイスイ進んでいくぞ。息継ぎもできているから、息苦しかったり、体が沈んでしまったりすることもない。


「いいですよ、明斗さん!」


「その調子です!」


 息継ぎをするときに、氷織のそんな応援の声が聞こえてきて。それが泳ぐ力になっていく。

 ゴールである側面がはっきりと見えてきた。それでも、ペースをキープしたまま、クロールの大事なポイントに忠実に泳ぐ。

 そして、途中で一度も立つことなく、25m先のプールの側面にタッチ!


「やった! 初めて25m泳げた!」


 嬉しさのあまり、プールから顔を出した瞬間に大きな声でそう言ってしまった。

 ――パチパチ!

 真横から拍手の音がはっきりと聞こえてくる。なので、水中メガネを外してそちらを見てみると……そこには、嬉しそうな様子で俺に拍手している氷織の姿が。


「25m泳げましたね! 凄いですっ!」

「ありがとう。氷織の教えがなかったら泳げなかったと思うよ。さすがは氷織先生だ。本当にありがとう」

「明斗さんの頑張りがあったからこそですよ。練習する姿やクロールを泳ぐ姿はもちろんですが、泳ぎ切った今の明斗さんもとてもかっこいいです!」

「ありがとう」


 25mプールから上がり、氷織の頭を優しく撫でながらキスをする。

 2、3秒ほどで俺から唇を離すと、そこにはほんのりと顔を赤くして、可愛い笑顔で俺を見つめる氷織がいた。


「おめでとうございます、明斗さん」


 俺にしか聞こえないような小さいボリュームの可愛い声でそう言って、今度は氷織からキスするのであった。

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