第3話『益虫』
約束の午後2時頃になると、火村さん、葉月さん、和男&清水さんカップルの順番で氷織の家に続々とやってきた。
火村さんが来たすぐ後に、七海ちゃんも氷織の部屋にやってきた。インターホンが鳴るまで氷織とたくさんキスしていたので、七海ちゃんは部屋に来た直後に「イチャイチャしていたんですね」と見抜いた。
7人全員が集まり、俺達は中間試験対策の勉強を始める。ちなみに、座っている場所は俺から時計回りに葉月さん、和男、清水さん、火村さん、七海ちゃん、氷織だ。
「七海ちゃん! 国語と英語と社会で分からないことがあったらあたしに訊いてね! でも、数学と理科は氷織か紙透か、理系クラスの沙綾に訊いてね」
勉強を始める直前に、火村さんは中学2年生の七海ちゃんに向かってそう言った。中学レベルなのに、数学と理科については俺達に訊けと言うなんて。そんなに教える自信がないのだろうか。まあ、いざ訊かれて教えられないよりはマシなのかも。
「分かりました! 文系科目と英語では頼りにしますね、恭子さん!」
七海ちゃんは持ち前の明るい笑顔で火村さんにそう言った。
七海ちゃんの反応に心を打たれたのか、火村さんはニヤニヤしながら七海ちゃんの頭を撫でる。火村さんは七海ちゃんをとても気に入っているようだ。氷織の妹だけあってかなり可愛いもんなぁ。
俺は和男に理系科目と世界史B、葉月さんに古典Aと日本史A、七海ちゃんにはたまに数学を教えながら、自分の試験勉強を進めていく。ちなみに、俺は教科書や副教材の問題集を使って、英語科目を中心に勉強している。
学年1位の氷織と正式な恋人になったので、それに相応しい成績を取りたい。うちの高校では定期試験後に、成績上位者の一覧が掲示板に貼り出される。1年生のときはその一覧に一度も入ったことがなかったので、今度の中間試験では初めて上位者入りすることを目標にしている。
たまに氷織をチラッと見ると、彼女は問題集を使って数学Ⅱの試験勉強をしているようだ。七海ちゃんや火村さん、清水さんの勉強を教えているときもある。氷織が誰かに教える光景も見慣れてきた。
また、勉強開始直前の言葉もあってか、七海ちゃんが火村さんに質問することが何度かあった。どうやら、得意科目を教えるのは得意なようで、七海ちゃんも「理解できました。ありがとうございます」とお礼を言っていた。その度に火村さんがデレデレしていて。俺も七海ちゃんにお礼を言われたときに凄く可愛いと思ったから、火村さんがデレデレする気持ちが分かる。
「あっ、ここ分からないな……」
英訳の穴埋め問題で詰まってしまった。少し考えても……さっぱり分からない。氷織に訊こう。
氷織の方をチラッと見ると、ちょうど清水さんに教えるのが終わったところだった。よし、氷織に訊くか。
「氷織。分からないところがあるんだけど、質問していいかな?」
「もちろんですよっ」
おおっ、凄く嬉しそうに言ってくれるな。本日最初の質問だからだろうか。
「この穴埋め問題が分からないんだ」
「なるほど。どれどれ……」
そう言いながら、氷織は俺に近づいてくる。腕が触れるくらいに。そのことで、氷織の温もりと甘い匂いがふんわりと香ってきて。それもあってドキドキしてしまうけど、氷織の解説を聞いて問題の理解に努めた。
「それで、この単語がかっこに入るんです」
「なるほど、そういうことか。理解できたよ。ありがとう」
「いえいえ。質問して、分からないところを理解する明斗さんは偉いですね」
よしよし、と氷織は俺の頭を優しく撫でてくれる。笑顔もとても優しくて。
教え方がかなり上手だし、分からない内容を理解できたことにも褒めてくれるし。氷織って学校や塾の先生に向いているんじゃないだろうか。凄く人気が出そう。
「こういうときにも、ラブラブっぷりを見せてくれるッスねぇ」
と、葉月さんはニヤニヤしながら言う。気づけば、みんな俺達のことを見ており、火村さんと七海ちゃんは葉月さんと同じようにニヤニヤしていて。だから、この状況がちょっと照れくさくて。何か話題を振った方がいいな。そう思い、部屋の中を見渡す。
「あっ、もう3時半なのか。早いなぁ」
「そうですね。勉強会を始めてから1時間半経ちましたし、ここで少し休憩しましょうか」
氷織がそう提案すると、俺達はみんな賛同の意を示す。少し休憩を入れた方が、この後の勉強も集中できるんじゃないだろうか。
「では、1階から何かお菓子を……ひぃっ!」
いつにない声を上げると、氷織は青ざめた顔になって俺の右腕をぎゅっと掴んでくる。怖がった表情になり、体も小刻みに震えている。
「ど、どうしたんだ、氷織」
「……あ、あそこに大きなクモが……」
怯えた声でそう言うと、氷織は震えた右手の人差し指で扉の方を指さす。その方に視線を向けると……部屋の扉に特大サイズのクモが。きっと、俺以外もあのクモを見たのだろう。
『きゃあっ!』
複数人の女性による悲鳴のユニゾンが聞こえてきた。
周りを見ると、火村さんと七海ちゃんが抱きしめ合いながら怯えており、清水さんが和男の背中にしがみついている。おそらく、今の悲鳴はこの3人によるものだろう。氷織を含めて4人はクモが苦手のようだ。
「こりゃドデカいクモだな!」
「そうッスね。年に一度会うかどうかのデカさッス。ちょっとビックリしたッス。窓が網戸の状態で開いているんで、その隙間から入ったかもしれないッスね……」
この反応からして、どうやら、和男と葉月さんはクモが平気なようだ。
俺は小さい頃は虫が怖かったけど、大きくなるにつれて恐怖心が減り、今は家に出てくる虫は平気になった。
「最近は晴れると暑くなる日も多くなってきたッスからね。今週に入って、あたしの家でも小さい虫を見つけたッス。それにしても、立派なアシダカグモッスねぇ」
「へえ、そんな名前なのか、葉月。さすがは理系クラスだ!」
「どうもッス。このクモは人間に害はないし、ゴキブリやハエ、小さなネズミを捕食してくれる益虫ッスけど……駆除した方が良さそうな雰囲気ッスね、ひおりん」
氷織に視線を向け、苦笑しながら葉月さんはそう言う。
氷織は葉月さんのことを見ると、何度も首を縦に激しく振る。
「そ、外に出してあげてください。私のような女子高生の部屋にいるよりも、大自然の中で生きる方がクモにとっても幸せだと思うので」
依然として怯えた表情だけど、氷織はしっかりとした口調でそう言った。とても苦手だろうに外に出してあげてと言うなんて。優しいなぁ。うちの姉貴なんて、こんな特大サイズのクモをと出くわしたら「殺していいからさっさと駆除して!」って言うし。
「了解ッス。じゃあ、あのクモを外に出すッス。腕を動かせる範囲が広い倉木君が捕まえに行って、紙透君とあたしが両サイドからサポートする形にするッス」
「おう、分かった!」
「その作戦でいこう、葉月さん。氷織達4人は……ベッドの側にいて。そうすれば、あのクモから少しでも離れたところにいられるから」
それに、そうしてくれた方が、クモを駆除する俺と和男と葉月さんも動きやすいから。
俺の指示があってか、火村さんと七海ちゃん、清水さんは氷織の周りに集まる。
駆除組である俺と和男、葉月さんはクッションからゆっくり立ち上がる。
また、「こちらから手を出すと噛まれる危険があるッス」と葉月さんが忠告してくれたので、勉強机にあるティッシュペーパーから各々2、3枚取り出し、右手に装着。
「みんな、どうかした? 悲鳴が聞こえたけど」
部屋の外から陽子さんのそんな声が聞こえてきた。おそらく、氷織達の叫び声を聞き、心配になって来てくれたのだろう。
「特大サイズのクモが出たので、ひおりん達が驚いたッス」
「なるほどね。今の話を聞いて寒気がしたわ。お母さんも特大サイズの虫怖い」
「そうッスか。扉のところにいるので、扉を開けないでほしいッス。あたしと紙透君、倉木君で外に出すので安心してほしいッス」
「うん、分かったわ。じゃあ、1階に戻るわね」
陽子さんのそんな声が聞こえた後、部屋の外から足音が聞こえ、それはやがて消えていった。1階へ戻ったのだろう。
陽子さんとのやり取りはあったが、クモは今も扉にくっついている状態だ。クモの正面に和男が立ち、彼の左側に俺、右側に葉月さんが立つことに。
クモが動かないように、和男は扉に向かってそっと近づいていく。部屋の中が静まりかえっているからか、何だか緊張感がある。
そして、手が届きそうなところまで和男が近づいたとき、
「行くぞ!」
おりゃあっ! と和男は右手をクモに向かって素早く手を伸ばす。
ただ、大きな和男の手が高速で近づくことによって生じた空気の流れに気づいたのだろうか。クモは間一髪のところで和男の右手を躱す。
「くそ、逃げた!」
『きゃあっ!』
クモが動き始めたことと、和男のその言葉で背後から氷織達の悲鳴が。
――バンッ! バンッ!
天井の方に向かって動くクモを和男は何度も捕まえようとする。しかし、クモがすばしっこくてなかなか捕まえられない。
しかし、クモは天井に辿り着いたところで進路変更。俺の方に向かって動いてきた。
「和男! こっちに来た! 待ち伏せて俺が捕まえる!」
「おう! 任せたぜ!」
「いつでも外に出せるように、あたしは窓を開けるスタンバイをしているッス!」
「分かった!」
俺はクモの動きに集中しよう。氷織を怖がらせたクモを絶対に捕まえてやる。
クモは俺のいる方向に向かって壁を歩いている。さっきまで和男の捕獲から逃げていたからか、そのスピードはなかなかのもの。
そして、俺の正面に来たとき、俺は素早く右手を伸ばした。ティッシュ越しではあるが、何かを掴んだ感覚がある。
右手の力を入れたままティッシュの中身を見てみると、そこにはクモの姿が。8本の長い脚が動いているので、捕まえた衝撃で死んでしまうことはなかったか。
「捕まえた」
「さあ、早く出すッス!」
そう言うと、葉月さんは勉強机の近くにある窓を開けてくれる。
氷織達が怖がっていたのもあり、俺はクモを思いっきり投げた。……青山家の外壁を越えてしまったな。もし、お隣に住む方の中にクモが苦手な人がいたらごめんなさい。
「お隣さんまで飛んでったッスね」
「思いっきり投げたからね。……みんな、クモを外に逃がしたよ」
そう言って、俺は部屋の中へと振り返る。
クモが苦手な氷織達4人はほっと胸を撫で下ろしている。抱きしめ合って怖がっていた火村さんと七海ちゃんは「良かったぁ」と安堵の言葉を漏らすほどだ。
「3人ともありがとうございます。部屋の中は涼しいですし、虫が入ってきたら嫌なので窓を閉めちゃいましょう」
「あたしがやるッス」
葉月さんは勉強机の側にある窓と、ベッドの近くにある窓の両方を閉める。これで外から虫が入ってくることはないかな。
「よくやったな、アキ」
喜んだ様子でそう言うと、和男は俺に向かって左手を挙げてくる。なので、俺は「ありがとな」と言って和男と左手でハイタッチした。その流れで、俺達は葉月さんとも左手でハイタッチ。
「何とか外に出せて良かった。あと、4人はクモが苦手なんだね」
「小さい頃は大きさ問わずに虫全般が苦手でした。今は小さいサイズの虫であれば、ティッシュで捕まえて外に出せるようになりましたね。ただ、さっきのクモのようにとても大きなサイズだと怖くて何もできないです……」
「あたしは今も大きさ問わず虫全般ダメですね。小さいものなら、お姉ちゃんに駆除を頼みます」
「あたしも虫はダメ! 何とか相手できるのはハエとアリくらいよ。すぐにお父さんに頼るわ。家に誰もいなかったり、夜遅かったりしたら、スリッパや殺虫剤を使って殺しちゃう。生かして外に出すなんていう高等技術はあたしにないわ」
「あたしも同じ感じだよ、恭子ちゃん」
耐性に多少の違いはあれど、4人ともクモだけでなく虫全般が苦手なんだな。これからはより暖かくなって虫と出くわしやすくなるので、4人にとっては嫌な時期になるだろう。
「でも、明斗さんは虫が平気で、あんなに大きくてもちゃんと駆除できるなんて。とても頼もしいです。ますます好きになりました」
「その気持ち分かるよ、氷織ちゃん! 去年の夏、あたしの部屋に出た虫を和男君が駆除したのを見て、和男君のことがより好きになったもん!」
「ですよね!」
氷織と清水さんは嬉しそうに語り合っている。互いに彼氏持ちだからこそ共感できるのだろう。あと、自分の恋人と親友の恋人が笑い合う光景っていいな。
まさか、氷織に頼もしく思ってもらえて、ますます好きになってもらえるとは。さっきまでは氷織を怖がらせる悪い虫だと思っていたけど、色々な意味であのクモは益虫だったようだ。
「これから、虫のことで何かあったら遠慮なく俺に頼って。俺が一緒にいるときはすぐに駆除するから」
「ありがとうございますっ!」
氷織はとても嬉しそうに言ってくれる。ここまで嬉しそうなのは、さっき、和男と葉月さんと一緒に協力してクモを駆除した姿を見たからだろうな。クモを捕まえたのは俺だし。氷織が虫関連で不安になったときには、すぐに解消できるように努めよう。
それから、氷織がキッチンから持ってきてくれたクッキーやマシュマロを食べて休憩する。
20分ほど休憩した後、試験勉強を再開する。休憩前と変わらず、和男と葉月さん、七海ちゃんの質問に答えながら、自分の勉強を進めていくのであった。
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