エピローグ『澄んだ空気と青い空』

 5月14日、金曜日。

 夏になるまであと半月ほど。だから、朝でも日差しを直接浴びると結構な温かさだ。ただ、自転車を漕ぐことによって受ける風は涼しいから、今はまだ春なのだと思わせてくれる。

 やがて、氷織との待ち合わせ場所であるいつもの高架下が見えてきた。今はまだ8時過ぎか。早めに来たな。氷織は既に待ってくれているのだろうか。

 ワクワクしながらペダルを漕ぐと、高架下で待っているカーディガン姿の氷織が見えた。


「氷織」


 俺が名前を呼ぶと、氷織はすぐにこちらを向く。可愛らしい笑顔になり、


「明斗さんっ!」


 こちらに大きく手を振りながら、俺の名前を元気良く言ってくれた。あんなに可愛い子が俺の恋人になったんだよなぁ。幸せだ。自転車走行中なので、左手で小さく手を振った。

 高架下に到着し、俺は自転車から降りる。


「おはよう、氷織」

「おはようございます、明斗さん。今まで以上に明斗さんと会えるのを楽しみにしていました」

「俺もだよ。自転車もスイスイ進むから結構早く来られたんだけど、もう氷織がいるなんて。さすがだ」

「待ち合わせをするのが好きですからね。以前も言ったことがありますが、とても会いたい人を待つ時間が好きですから」


 落ち着いた笑顔でそう話す氷織。

 これからも、この高架下に行くと氷織が待っている可能性が高そうだ。今の言葉には甘えずに、約束の時間である8時10分頃までには行けるようにしないと。


「じゃあ、学校へ行こうか」

「あ、あのっ。出発する前に……その……」


 氷織は頬をほんのりと赤くして、俺のことをチラチラと見てくる。


「お、おはようのキスをしたいな……と思いまして」

「……お、おはようのキスですか」


 まさに恋人らしい。

 キスという言葉を聞いてドキッとしてしまう。昨日の勉強会の休憩時間に、氷織とたくさんキスしたことを鮮明に思い出す。あのときは本当に気持ち良くて、幸せな時間だったな。


「今まで読んだ恋愛漫画や小説に、そういうシーンが描かれた作品がいくつもあったのを思い出して。私も明斗さんとしてみたいなって」

「なるほどね。夫婦とか同棲するカップルとかが朝にキスしているシーンってあるよね。じゃあ、俺達もおはようのキス……してみようか」

「はいっ。おはようございます、明斗さん」

「おはよう、氷織」


 朝の挨拶を交わし、氷織からおはようのキスをしてくる。

 外でしているから、とても新鮮なキスに思えて。柔らかくて涼しい風が心地良く、氷織の髪のシャンプーの甘い匂いを運んでくれる。それもあって爽やかな感じがした。

 数秒ほどして、氷織の方から唇を離す。ゆっくりと目を開けると、そこには嬉しそうな笑顔を見せる氷織がいた。


「外でするキスもいいものですね」

「……そうだね」

「あと、朝から明斗さんとキスできて幸せです」

「俺も。今日はいい日になりそうな気がする」

「そんな感じがしますよね。では、学校に行きましょうか」


 そして、俺は氷織と一緒に学校に向かって歩き始める。待ち合わせの時間よりも早く会ったから、ゆっくりとした歩みで。


「空気が爽やかですね」

「そうだね。青空が広がっているし、いい季節だ」

「そうですね。気候がいいですから好きな季節ですね。ただ、明斗さんのおかげで、これからはより好きになると思います」

「俺も好きになりそうだ」


 氷織とお試しの恋人で付き合って、正式な恋人になれたから。きっと、氷織も同じような理由じゃないだろうか。そうだと嬉しいな。


「そういえば、お互いに家族から祝ってもらえて良かったです」

「そうだね」


 昨日の夕食のとき、俺は氷織と正式に付き合い始めたことを両親と姉貴に伝えた。そうしたら、みんな凄く喜んでくれて、母親と姉貴は何度もバンザイするほど。父親は穏やかに微笑みながら拍手していた。

 夕食後に氷織と電話した際、氷織も夕食の時間に七海ちゃんと亮さんに、俺と付き合うことを報告したと聞いた。七海ちゃんは大喜びし、亮さんは落ち着いた口調で「おめでとう」と言い、微笑みながら涙を流したらしい。その話を聞いたとき、氷織のことを大切にしようと改めて思った。

 あと、七海ちゃんから『正式な交際おめでとうございます! お姉ちゃんを末永くよろしくお願いしますね!』とメッセージをもらった。氷織と付き合い始めた嬉しさで『いつかは義理の兄妹になろうね』って返信しようとしたけど、それは何だかキモそうだから思いとどまったよ。


「陽子さんには直接報告したけど、亮さんと七海ちゃんにも挨拶したいね」

「私も明斗さんのご家族に挨拶したいです」

「じゃあ、近いうちに2人で挨拶しようか」

「そうしましょう」


 正式に付き合うと挨拶したら……亮さんがどんな反応を示してくるか。お試しで付き合うと挨拶したときは、亮さんは俺の両肩をガッシリと掴んできたからな。ちょっと怖い気持ちがある。

 そういえば、昨晩は氷織と電話やメッセージで話したり、和男達から聞いたのか、何人かの友人から氷織と付き合い始めたことを祝うメッセージをもらったりした。でも、和男と清水さん、火村さん、葉月さんからは全然連絡がなかった。何か嫌な予感がする。

 気づけば、学校近くの道を歩いている。横には、昨日の氷織の告白の舞台となった公園がある。氷織と並んで座ったベンチも見えて。昨日の告白を思い出す。

 学校に到着し、俺は駐輪場に自転車を停めた。


「さあ、行きましょうか」

「そうだね」


 俺は氷織と恋人繋ぎをして、2年2組の教室へと向かう。

 今日はいつも以上に俺達を見てくる生徒が多いな。もしかしたら、俺達が正式に付き合い始めたことがさっそく広まっているのかもしれない。

 前方の扉から、俺達は2年2組の教室に入る。


「おおっ、正式カップルになった2人が来たぞ!」


「2人ともおめでとう! 特に紙透君! 初恋実ったね!」


 などといった祝福の言葉がかけられ、教室にいた大半の生徒から拍手を送られる。こんなにも祝われると嬉しい気持ちになるな。氷織も嬉しそうな笑顔を浮かべていて。きっと、和男達が俺と氷織が付き合い始めたのを教えたのだろう。

 そして、その和男達は……いつもの通り、4人で和男の席の周りに集まっていた。彼らも俺達に向かって拍手している。

 バッグを自分の机に置いた氷織と一緒に、和男達のところへと向かう。


「みなさん、おはようございます」

「おはよう。みんなが、俺達が付き合い始めたことを伝えたのか?」

「おう! おめでたいことだからな! まあ、昨日のうちに友達には伝えたし、そいつらが広めたのか、俺達が教室に来たときには結構な奴らが知っていたぞ」

「陸上部にも伝わっていたよね」


 氷織はかなりの人気を誇る有名人。そして、俺達がお試しで交際していることは、この半月あまりで学校中に広まっていた。だから、俺達が正式に付き合い始めたことが広まるのも早いか。


「昨日の夜に友達から、おめでとうってメッセージが来たよ」

「私もです。ただ、沙綾さん達からは全然連絡が来ませんでしたね」

「正式交際初日だから、水を差さないように紙透と氷織には電話やメッセージはしないって、勉強会のときに決めたの」

「それに、ひおりんと紙透君が2人きりの勉強会中にどう過ごしたかは、今日の学校で聞けばいいって話にもなったッスから」

「なるほどです」


 勉強会のときはもちろんのこと、夜になってからも電話やメッセージで氷織との会話を楽しんだからな。それを予想して、4人は俺達に連絡はしないと決めたのかもしれない。


「それで、さっそく訊くッスけど……2人はどこまで進んだッスかぁ?」


 ニヤニヤしながら葉月さんがそう問いかけてくる。そのことで、氷織とのキスを鮮明に思い出す。あぁ……顔が熱くなってきたぞ。氷織も同じなのか、「はうっ」と可愛い声を漏らし、頬中心に赤くなっている。


「2人のその反応……ま、まさか……ベッドの中で色々してしまったのかしら?」


 火村さんは氷織よりも顔を赤くして、俺達にそう問いかけてくる。まったく……君は俺達が何をしたと思っているんでしょうか?

 今の火村さんの言葉もあってか、葉月さんと清水さんも頬を赤くしている。和男は苦笑い。

 氷織は顔全体を熟れたりんごのように真っ赤にして、


「キ、キスまでですっ! ベ、ベッドには入っていませんっ!」


 と、甲高い声で言った。あたふたする氷織は新鮮で可愛らしい。あと、氷織も火村さんの言葉で色々と考えているんじゃありませんか。


「氷織の言う通りキスまでだよ。何回もしたけどね」

「そ、そうだったのね」


 事実を知ったからだろうか。火村さんの顔の赤みが少し引いた。

 あと、氷織が大きな声でキスと言ったからか、教室にいる生徒の多くがこちらを向いてくる。中には俺達の近くまで来る生徒もいる。


「そういえば、昨日の公園では2人はまだキスしていなかったわね。……キスするとどんな感じなのか興味あるわ」

「あたしも見てみたいッスね。今後の作品作りの参考にもしたいッス」

「前に、和男君とキスするところを紙透君に見られたことあるし、あたしも見てみたいかな」

「俺も見てみたいぜ」


 火村さん達は俺と氷織のことをじっと見てくる。こう言われたら、キスするしかないか。


「氷織、どうする?」

「私は……してもいいですよ」


 普段よりも可愛らしい声でそう言うと、氷織は俺の目を見てニコッと笑う。


「分かった」


 俺は氷織と向かい合う形で立って、氷織の両肩をそっと掴む。


「氷織、好きだよ」

「私も明斗さんが好きです」


 そう言って、氷織は目を瞑る。

 みんなに見られていると思うと、結構緊張する。でも、目を閉じてキスを待っている氷織を見ると、自然とその緊張が解けていって。氷織の唇に吸い込まれるようにして、俺は氷織にキスをする。

 氷織にキスした瞬間、周りからは「おおっ」とか「きゃあっ」といった声や拍手が聞こえてきて。

 唇を離すと、氷織は嬉しそうな笑みを浮かべ、俺を見つめてくれる。火村さん達やクラスメイトなど笑顔を向ける人はたくさんいるけど、氷織の笑顔が誰よりも可愛らしい。この笑顔を守っていきたい。そう思うとより愛おしく思えて。

 俺は氷織を抱き寄せ、再びキスするのであった。




本編 おわり



続編に続く。

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