第8話『恭子がにらんでいた理由』

 4月28日、水曜日。

 今日も高架下で待ち合わせして、氷織と一緒に登校する。

 昨日の間に、氷織と俺が付き合っていることが広まったのだろうか。俺達は昨日以上に多くの生徒に見られている。中には俺達に嫌悪感の表情を出したり、にらんだりする生徒もいて。酷いと、


「なんで、あんな奴が絶対零嬢と付き合えるんだよ……」

「何か弱みでも握ったんじゃね?」


 俺に聞こえるように恨み言を発する奴らもいる。氷織の弱みを握った事実なんて一切ない。それでも、耳に入ると胸がチクッと痛んだ。

 今の言葉が氷織の耳にも入ったのだろう。氷織が立ち止まり、恨み言を言った男子生徒達に鋭く凍てついた視線を向ける。その瞬間、彼らは怯えた様子になり、逃げ去っていった。


「弱みなんて握られていないと言おうとしたのですが……」

「今の視線で十分に伝わったと思うよ。ありがとう、氷織」

「いえいえ」


 今の氷織の対応が、傷口に薬を塗ったかのように心の痛みを癒してくれる。ちょっと怖かったけど。

 もし、氷織が何かされたときには、俺がちゃんと守っていきたいと胸に誓うのであった。



 今日も学校生活が始まる。

 明日が祝日で休みだから、いつもの水曜日よりもクラスの雰囲気が明るい。和男も清水さんも明日が休みで嬉しいと言っていた。

 気分の良さそうな生徒が多い中……火村さんは相変わらず氷織をにらんでいる。たまに、そのにらみを俺に向けることもあって。あんなに毎日不機嫌だと疲れそうだ。それとも、怒りが元気の源になるタイプなのかな。世の中には怒りが最高のエンタメな人もいるみたいだし。

 火村さんにはにらまれたものの、特に問題が起きることなく午前中の授業が終了。

 さあ、今日も楽しいお昼休みの時間がやってきました。

 弁当と水筒を持って、氷織の席へと向かう。


「氷織。一緒にお昼ご飯を食べよう」

「ええ。いいで――」

「紙透。ちょっといいかしら」


 その声を聞いて、まさか……と思った。

 声がした方に顔を向けると、目の前に火村さんが立っていたのだ。火村さんは腕を組み、いつも通り不機嫌そうに俺達を見ている。


「何かな、火村さん」

「あなたと2人きりで話したいことがあるんだけど」

「俺と2人きりで?」


 俺に何を話したいんだろう? 昨日から俺をにらみ始めたことに関係があるのかな。氷織のこともにらんでいるし、氷織絡みの可能性もありそうだ。


「氷織。俺は火村さんと話したいと思ってる。行ってきてもいいかな?」

「……ええ。いいですよ」

「ありがとう。氷織、先に食べ始めてて」

「分かりました。いってらっしゃい」

「いってきます。……行こうか、火村さん」

「ええ。ついてきなさい」


 火村さんについていく形で、2年2組の教室を出る。

 付き合い始めた氷織ではなく、別の女子生徒と一緒に歩いている。しかも、その女子生徒は人気のある火村さん。だからか、廊下や階段にいる生徒の多くがこちらに視線を向けてくる。

 1階に降り、俺達は教室B棟の昇降口から外に出る。


「ここでいいか」


 B棟の横まで歩いたとき、火村さんは立ち止まった。周囲には全然人がいないし、ここなら火村さんと2人きりで話せるだろう。


「ここまで連れてきて、俺と2人きりで話したいことって何だ?」


 俺がそう問いかけると、火村さんはこちらに振り返る。そんな火村さんの目つきはかなり鋭い。目の前でにらまれると結構な迫力がある。


「……友達から聞いたんだけど。紙透……あんた、青山とは正式じゃなくてお試しで付き合っているんだって?」

「ああ、そうだよ」


 俺からは和男や清水さんなど、親しい人にしかお試しで付き合っていることを話していない。でも、教室で話しているので、それを小耳挟んだ生徒達から広がり始めているのだろう。

 火村さんは俺を指さして、


「お試しで付き合うなんて不誠実よ。今すぐに青山と別れなさい!」


 迫力のある声でそう言ってきたのだ。

 お試しで付き合うことに反対する人がいるのは覚悟していた。ただ、まさか……氷織をにらみ続ける火村さんから言われるとは思わなかった。嫌っている人が誰と付き合おうが関係ないと思うんだけどな。たとえお試しでも。

 でも、火村さんはこうして「氷織と別れろ」と俺に言っている。もしかして、理由は俺にあるのか?

 思い返せば、火村さんは昨日の朝から俺をにらむようになった。それは、氷織と付き合い始めたことが学校に広まったタイミングだ。ということは――。


「ごめんね、火村さん。俺は氷織のことが大好きなんだ。お試しで付き合っていることは俺から提案して、氷織も合意していることなんだ。だから、氷織とは別れないし、火村さんの好意に応えることはできない」

「はあ? 何言ってるの?」


 火村さんはとても不機嫌そうに言う。心なしか、今まで以上に目つきがキツいような。


「いや、だって……俺のことが好きだから、ここまで連れてきて、氷織との関係を解消しろって言ったんじゃないのか?」

「馬鹿じゃないの? 紙透なんかに恋愛感情をこれっぽっちも抱いてないから。あたしは青山氷織が好きなの!」


 そう言う火村さんの顔はどんどん赤くなっていく。

 まさか、俺じゃなくて氷織のことが好きだとは。勘違いだと分かって恥ずかしくなってきたぞ。火村さんの言う通り俺は馬鹿なのかも。でも、今までの態度を見ていたらなぁ。


「氷織が好きなら、どうして氷織をにらみ続けているんだ? 本人は全然気にしていないようだけど」

「だって、にらんでいないとニヤニヤしちゃいそうだから! 普通に青山を見たら表情が緩んだのが分かったし。鏡の前で青山のことを考えてみたらニヤッとしたし。そんな顔を見られたら、青山に変な風に思われそうで嫌だったんだもん……」

「随分と可愛い理由だな」

「……ほえっ」


 火村さんはそんな可愛らしい声を漏らし、俺をチラチラ見る。


「か、可愛い?」

「可愛いよ」


 結構なツンデレだと思う。この事実を氷織が知ったら、氷織も同じことを思うんじゃないだろうか。


「ただ、にらんだら氷織がどう思うかは考えなかったのか」

「……自分のことばかり考えてた。変な顔を見せるよりはマシとしか。ただ、青山が気にしていないようで良かったわ……」


 ほっと胸を撫で下ろす火村さん。


「新年度が始まった直後に、氷織とお手洗いでぶつかったらしいね。そのことで怒って、自分をにらむようになったじゃないかって氷織が言っていたよ。自分の方が多く告白されていることを妬んでいるかもとも」

「そうだったの。怒りとか妬みは全然ないわ。告白は何度もされるけど、青山と比べることはないなぁ。青山は男子、あたしは女子から告白されることが多いからかな。青山は凄いって思ってるわ」


 今まで不機嫌な様子ばかり見ていたのもあって、告白されることや人気について全然比べていないのは意外だ。

 あと、火村さんは女子から告白されることが多いのか。覚えている限りでは……確かに女子が多いな。凜々しい雰囲気もあるし、それは納得かな。


「それにしても、お手洗いでのこと……青山は覚えていてくれたんだ。嬉しいわぁ」


 甘い声でそう言い、火村さんはうっとりとした表情になる。これは完全に恋している女子の顔になっているな。今までの火村さんとは別人に思えるほどだ。


「あのとき、青山は倒れそうになったあたしを抱き寄せてくれたの。そのときに感じた青山の温もりと匂い。制服越しでも伝わる胸の柔らかさ。そして、至近距離であたしを見つめながら『大丈夫ですか?』って言ってくれて。そのことで、あたしは青山に恋心を抱き始めたの」

「それで、ニヤニヤしないように氷織をにらむ日々が始まったのか」

「そ、そうよ。にらんでいたけど、授業中や休み時間に青山の姿を見られて幸せだった。いつか告白して、付き合いたいって思っていたの。……そうしたら、昨日の朝に青山が紙透と付き合い始めたって話を聞いてさぁ」


 そうしたら……の部分から急に火村さんの声色が低くなって、目つきが悪くなった。感情の振れ方が凄いな。


「それで……俺のこともにらみ始めたと」

「ええ。あんたに対してはちゃんと妬んでる」

「ちゃんとって」

「……昨日のお昼に、青山特製の玉子焼きを食べさせてもらっていたときは羨ましくて仕方なかったわ。あたしと代わってほしいくらい。正式に付き合っているならまだしも、お試しだって聞いたら我慢できなくなって」

「それで、俺と2人きりになって、お試しで付き合うのは不誠実だから氷織と別れろって言ったのか」

「そういうこと。みんなの前で言うと騒ぎになりそうだし。青山のいる場だと勇気が出ずに言えなかったかもしれないから……」

「なるほどなぁ」


 上手くいけば、俺と氷織は別れて、以前と同じ状況に戻せると思ったのか。そうすれば、自分が告白し、氷織と恋人として付き合える可能性も復活するから。


「火村さんの想いは分かった。それでも、君に対する返事は変わらない。俺は氷織が好きで、氷織と合意の上でお試しで付き合ってる。だから、氷織とは別れないよ」

「ぐぬぬっ……」

「そう言ってくれて嬉しいです、明斗さん」


 背後から氷織の声が聞こえた。火村さんにも聞こえたようで、火村さんは一瞬のうちに顔全体を真っ赤にした。

 振り返ると、氷織がこちらに向かって歩いてきていた。

 氷織は俺のすぐ横まで来ると、すっと立ち止まる。こうして見てみると、氷織と火村さんはあまり背丈が変わらないな。火村さんの方が若干高く見える。


「ついてきていたんだ」

「ええ。2人の様子が気になりまして。あと、火村さんが明斗さんや私をにらむ理由が分かるかもしれないと思いまして。そうしたら……まさか私のことが好きで、変な顔を見せないためににらんでいたとは。明斗さんの言う通り可愛いと思いました」

「青山が可愛いって言ってくれた……!」


 きゃーっ! と火村さんは黄色い声を上げて喜んでいる。本当に氷織のことが大好きなんだって分かる。あと、予想通り、氷織は自分をにらんでいた理由を知って、火村さんを可愛いと思ったか。

 ただ、興奮しているのは少しの間だけで、火村さんはすぐにしおらしくなる。


「青山に好きな気持ちがバレちゃった……」

「……その気持ちは嬉しいです。ただ、お試しですが私は明斗さんと付き合っています。なので、あなたの気持ちに応えることはできません。ごめんなさい」


 氷織はそう言って火村さんに向かって頭を下げた。

 火村さんは寂しげな笑みを浮かべ、俺達から視線を逸らす。


「こういう形で好意がバレてフラれたのは、青山と紙透をにらみ続けた罰ね」


 火村さんは真剣な表情になり、俺達のことを見てくる。


「青山の考えは分かった。それでも、お試しで付き合うのがいいとは思えない。だから、とりあえずは様子を見ていてあげる。もし、紙透が青山に辛い想いや悲しい想いをさせたら、そのときはあたしが守る。幸せにもしたい。そのくらい、青山のことが好きだから」


 はっきりとした口調でそう言ってきた。フラれた直後に言えるとは。氷織への好意がとても強いことが窺える。見習いたいと思えるほどだ。


「分かったよ、火村さん」

「そのお気持ちは受け取っておきますね」

「ええ。あと、わがままになっちゃうけど……お、お友達としてお付き合いできたら嬉しいなぁって。どう?」


 猫なで声で言い、氷織をチラチラと見る火村さん。氷織のことが好きなんだ。せめて、友達としてこれから氷織と関わっていきたいのだろう。


「お友達ですか。それならいいですよ。ただ、今後は私達をにらまないでくださいね。気にしてはいませんが、にらまれないに越したことはないですから」

「ありがとう、青山! 今までにらんでごめんなさい! ……紙透も」


 ついでに謝った感じの言い方だな。謝らないよりはいいけどさ。


「……許すよ、火村さん」

「私も許します。恭子さん、これからはお友達としてよろしくお願いします」

「こちらこそ! ありがとう、氷織!」


 お礼を言うと、火村さんは氷織のことをぎゅっと抱きしめた。氷織のデコルテあたりに顔をスリスリしている。女子同士の友人だから許されることだろうな。それにしても……火村さんが羨ましい。昨日、俺が玉子焼きを食べさせてもらったとき、火村さんはこういう感情を抱いていたのかな。 


「……ふっ」


 俺の気持ちを察したのか、火村さんは俺にドヤ顔を向けてくる。ちょっとイラッとするな。氷織から体を引き離してやろうかと思ったけど、火村さんの頭を撫でている氷織に免じて、引き離すことはやらないでおこう。

 一悶着あったけど、火村さんが氷織をにらんでいた理由が好意だと分かったし、2人が友達になって良かった。ただ、火村さんが氷織にベッタリし過ぎて、氷織が嫌な思いをしなければいいけど。

 その後、3人で連絡先を交換し、教室に戻るのであった。

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