二 -2-
薄紫がはじめて現れた時のことは、よく憶えている。
あれは本当になんでもない春の日だった。不思議とこの世ならざるものの気配も感じず、温かい陽気の日で朝から気分が良くて、この部屋で書物をしていた。
「少しくらい、お休みになられたらどうですか」
背後から聞こえたそんな声に驚いて振り向いて、さらに驚いた。彼女の風貌は、母にそっくりだった。白は産みの母を知らないので、もちろん体の母ではなく、初代神代と呼ばれる男の母親だ。
母は当然のことながら百年以上も前に死んでいたので、それが異形であることは一目で分かったが、同時にこの世のものであることも分かった。
名を問うと、素直にこの屋敷の名前である「草間庵」だと名乗った。そこからすぐに屋敷の付喪神であることが判明したのだ。
真名のままで呼ぶといろいろと問題があるので、彼女の着ている着物の色から薄紫と名付けた。そう呼ぶことにしたと告げると、彼女は「まあ、可愛らしいお名前」と嬉しそうに笑っていた。
あの薄紫色の着物は、母が一番気に入って良く身に着けていた着物だった。
「だけど犯人は、次元の境にどうやって穴を開けるんだ?」
謙介の問いかけに、おれは過去へ飛ばしていた意識を引き戻し、万年筆を滑らせる。
《次元の境は、伸縮性のある膜のようなものと考えるとわかりやすいでしょう。膜の薄いところを破って何かが通過すると穴が開き、さらに何かが通ると穴が大きくなっていく》
「ああ……だから、この世ならざるものが出る度に白が対処しに行くのは、穴が広がらないようにして、それで次元の境を守ってるってことか」
頷きで応える。
穢を使って薄紫の力を奪ったところに、何らかの術を使ってこの世ならざるものを呼び込めば、そこから次々と異形が雪崩込んでくる。
だからこそ、今この屋敷はこの世ならざるものの巣窟のような状態になっていると考えられる。さっきの見えざるものもその一部だろう。
障子が開かなかったことから、中から外へは出られないようになっているようだ。おそらくそれは、ことを犯したものの意図したところではなく、異形を屋敷の中で食い止めようとしている薄紫の最後の防衛本能だろう。
そもそもこの世界に次元の境は存在していなかった。混沌とした世界に、神が世界を区切りながら膜で覆うように、次元の境を作り出した。
膜にはその厚さのばらつきがあり、世界各地に薄い地点というものが存在する。この神代町がその一つだ。
この世に入り込みたい異形は当然のことながら膜の薄い地点から入り込もうとするため、その境の緩んでいるそれぞれの地点に、おれのような存在を置いた。と、おれは神から聞いた。
日本にも別に同様の場所があるのかもしれないが、おれはこの地を離れたことがないのでその辺りのことは知らない。
次元の外に行ったこともないので、そこに一体どんな世界が広がっているかも分からないが、こうも飽きもせずにあの手この手で異形が入り込もうとし、かつ物を奪っていこうとするのだから、よっぽど酷いところなのだろうと思っている。
おれはそっと、息を漏らした。
この世ならざるもののことは、慣れている。それこそ千年以上も前からずっとやりあってきたものだ。
だが、人の悪意というものは、いくら経験したからといって慣れないものだ。
「白?」
こちらを見る謙介の様子に、首を振って大丈夫だと示す。
《屋敷の中の穢を探し出しましょう。この世ならざるものに対応出来るのは今は塩だけしかありません。その場凌ぎにしか過ぎませんが、携帯していきますよ》
おれはノートにそう綴りながら、謙介に指示を出していく。
彼はこの状況に文句一つ言わずに従い出した。そんな謙介の姿を見、心の傷んだところが癒やされていくような心地がする。
弱りきったおれだけでは、とてもこの局面を乗り切ることは出来なかっただろう。おれのことを心配した、と言った謙介の気持ちが、不思議なようで、ひどくくすぐったい。
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