三 -2-
そこには、涼し気な生成りの着物を身にまとった白が眉を寄せて立っている。
「七瀬くん! どうして」
「貴方たちが駆け込んで来ると、薄紫が教えてくれました。それで? 何事です」
いかにも迷惑そうな様子で問いかけてくる白だったが、視線を落とした時、驚いたように片眉をあげた。俺もその視線を追って目を瞠る。
裸足で走ってきた穂香ちゃんの足から、けっこうな量の血が滲んで石畳を濡らしている。道中何か踏みつけでもしたのだろうか。それでも足を止めずに走り続けたのか。
「薄紫、手当を」
「その前に、話を聞いて……」
「大丈夫、穂香ちゃん、俺が話すから」
穂香ちゃんの言葉を切って、俺が白の前へと出る。
同時に、白に呼ばれて奥から出てきた、これまた着物姿の女性が穂香ちゃんを伴って屋敷の中へと入っていく。
今度は、白の迷惑そうな視線が俺の方を向く番だ。
「まっつんが俺の目の前で消えたんだ。その前に隼人もだが……」
「スケが?」
嫌味を言われる前にそう説明を始めると、あからさまに白の表情が変わった。
「俺は昨日の朝、通学路で変な女の人を見た。全身黒いワンピース着て、長い髪をしてた。こっちに向かって黙って手招きをしてたんだ。俺は行こうとしたけど、その時ちょうどまっつんに声をかけられて。気がついたら女の人は居なくなってた」
相槌を打つでもなく、しかし白は黙って俺の話を聞いている。
「それで今日、花火を見るために皆で井槌山へ行ったんだが、その途中で隼人を見かけた。お前も知ってるだろ、小さくていつも煩い位に元気な奴だよ。昨日から様子がおかしくて……その行く先を見たら、あの女の人がいたんだ」
「どんな顔をしていましたか」
同じ質問をどこかでされたような気がして、思い出す。そうだ、昨日の朝、謙介も確か同じことを聞いてきた。
「分からない。顔は見た、けど。何かこう、ぐちゃっとしてて、認識できなかった」
「そうですか。それで?」
「嫌な予感がして、俺は隼人を追いかけた。まっつんもだ。それで森の中に入っていくと、小さい神社みたいな建物があった。建物の扉が開いて、中にはあの女の人が立って、昨日の朝と同じように手招きをしていた。
全身から水が滴ってて、その水が俺の足元まで来てたんだ。俺は……多分、水を踏んでたと思う。そうしたら、まっつんが体当りして俺を突き飛ばして。気がついたら神社ごとまっつんも消えてたんだ」
順を追ってきちんと話したつもりだった。さっき気が動転したまま穂香ちゃんに説明したよりはまとまっていた気がするが、やはり自分で何度話しても馬鹿げていると思う。
この異常事態が伝わっているのかと不安になり、改めて白を見る。
彼は真剣な表情で、考えるように口元に手を当てていた。
「何故今日なんだ……」
ようやく口を開き出てきた言葉は、俺へ向けたものではなかった。きっとその言葉は、誰に聞かせるためというよりも自分だけの呟きなのだろう。
「何がだ?」
「祭りというのはその言葉の通り祭事です。神を祀り、次元の境を強固にする日なんです。そんな日に、この世ならざるものが次元を超えてくることなど、出来はしな……」
だが白はそこまで呟いて、はっとしたように俺の方を見た。
「次元を超えてくる必要のないもの……」
「次元って、何だよ」
「次元の内側に居ることを許された、この世ならざるものなど限られています。剣、スケがいなくなったのは井槌山と言いましたね?」
「あ、ああ……」
俺の問いかけに全く答える様子のない態度には相変わらず腹が立つが、急に下の名前を呼ばれて面食らう。
というか、こいつ俺の名前認識していたのか。剣なんて、誰も呼ばないのに。
「であれば、それの正体は蛟です」
「みずち?」
「この世ならざる者でありながら、この次元に居ることを許された水神。井槌山とは本来蛟の住まう山と呼ばれていた地です」
話は未だ分からないままだが、俺は眉を顰めながらも理解を試みる。
「その、蛟っていう化け物があの女の人で、まっつんと隼人をどっかに連れて行っちまったっていうことか? どうやったら助け出せるんだ」
「剣が見た女は、蛟のごく一部が人を呼び込むために変化した姿でしょう。あれは本来特定の姿を持たないものです。隼人の様子がおかしかったのも、手招くものに誘い込まれ、すでに式が完成してしまったとみて間違いありません。蛟が人を呼び込む意図は分かりませんが、あれは次元の内側にいて、尚且今は祭りの最中ですから、別次元には行っていないことは確かです」
白がそう説明を終えた時、屋敷の奥の方から声がした。
「その、蛟っていうのが、犯人の真名なの?」
視線を向けると、足の手当を終えたらしい穂香ちゃんがこちらへ向かってきていた。
「正確には音が違いますが、そうです」
「七瀬くん前に、真名が分かったら、退治が出来るって言ってたよね?」
「通常はそうですが……此度は相手が水神。神と呼ばれる程に力の強いもの。そう簡単に滅することの出来る相手ではありません」
「だからって、諦めないよね?」
穂香ちゃんの声が震える。よく見れば、その大きな瞳は今にも涙を零しそうな程に潤んでいた。こんな最中だが、俺は下世話な確信をしていた。やはり穂香ちゃんは、謙介のことが好きなのだ。
その身を案じ、あんなにぼろぼろになるまで裸足で走り通すなんて、並大抵の気持ちで出来ることではない。
「諦める?」
ふっ、と、白が息を漏らし笑った。
大きな一重の瞳が弧を描き、その不敵に笑う口元を隠すように、片手を添える。瞬間、ただの小さく生意気な下級生にしか見えていなかった白に妙な迫力を感じた。
「何を当然のことを。あれはおれのものです。たかが水神などにやるものか」
一定のトーンのまま変わらない声にさえ、何か言いしれぬ力のようなものが籠もっていて。謙介がああも従順に白に付き従う理由が、俺にも少しだけ分かった気がする。
ついに、白は行動を開始した。
「薄紫、車を出させてください」
「かしこまりました」
「剣、おれと来なさい」
呼ばれるまでもなく、ついて行くつもりだった。
白が戸から出たところを、穂香ちゃんが三和土まで追いかけてくる。
「待って七瀬くん、私も連れて行って」
「貴方の役目は終わりました、家に帰りなさい」
「でも……」
さらに縋ろうとした穂香ちゃんの肩に手を置き、宥めるようにぽんぽんと叩く。
「大丈夫、まっつんのことは、絶対に取り返してくるから。な」
「はい……」
渋々とだが納得したような穂香ちゃんを残し、俺と白は石段を降りて、何故かそこですでに俺たちを待ち構えていた黒い車に乗り込む。
その車はタクシーではなく、黒のセダンに、そのフロントにはアイコニックなキドニーグリルがある。高級車だ。白の家の持ち物なのだろうか。
バックミラーに少し映った運転手は当然のことながら見覚えのない壮年の男で、こちらもまた表情の読めない人物だ。白が何を言うでもなく、車は滑らかに走り出した。
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