四
学習机の上に乗り、壁の高い位置にある換気口の隙間を埋めるように貼り付けていたガムテープをベリベリと剥がしていく。
何の計画性もなしに貼ったから、粘着部分が少し残ってしまって汚い。また後で綺麗に掃除しなければ。
剥がしたガムテープを丸めながら机の上から飛び降りて、私は改めて自分の部屋の中を見渡す。
扉から入ると左手にクローゼット、右脇に机がある。正面にベッドが横向きに置いてあって、右手にベランダに出られる大きな窓がある。その窓を覆うカーテンを留めていた洗濯バサミも外し、他のところを目張りしていたガムテープも全て取り払った。今この部屋には、隙間が溢れている。
その隙間の一つ一つを意識すると、ぞっとするような怖さを感じるものの、私の気持ちは昨日よりもよっぽど落ち着いている。
なぜならこれは全て、七瀬くんの指示だからだ。これからどんなことが起こるのかは聞いても説明してもらえなかったけど、先輩も言っていた。七瀬くんのことは、信頼していいって。私も、そう思う。
やることがなくなって、私はベッドに腰掛ける。
部屋の丸い壁掛け時計に視線を向けると、九時四十五分を指し示している。昨日、クローゼットであの顔を見たのがちょうど十時ごろだったから、予定の時間までもう少し。
いつもベッドに置いているクマのぬいぐるみを引き寄せると膝の上に乗せて、ぎゅっと抱きしめる。このぬいぐるみは小さな頃にサンタさんからもらったものだ。
サンタさんということはつまり両親からのプレゼントだって今は理解しているけど、それでもやっぱり特別な感じがする。くまの名前はマイ。
妹ができたらマイって名前をつけたいなと思っていたのだ。実際にできたのは弟だったので、それはこのぬいぐるみだけの名前になったけれど。
そうだ。落ち着いたらユズには何か良いものでも買ってあげて、きちんと謝らないと。とてもひどいことをしてしまった。昨日のユズの泣き声を思い出すと、なんだか気分が落ち込む。
そういえばあのヨーグルトも買って帰ってくるのを忘れてしまった。明日こそは買って帰らないと。
静まり返った部屋で何もしていないでいると、取り留めのない、色々なことを考えてしまう。
私はマイを抱えたまま鞄の中からスマートフォンを取り出すと、メッセージアプリを起動する。送信先は、松前先輩。
さっき図書館を出る前に連絡先を交換したのだ。七瀬くんとも交換しようとしたのだけど、スマホを持っていないと断られてしまった。今どきスマホを持っていない高校生っていたんだ。
「準備終わりました」とアプリに打ち込むと、すぐに既読がついて「了解」と返事が来る。そういう場合ではないというのが大きいのかもしれないが、絵文字も何もなし。
了解って絵文字はいっぱいあるから、私だったら絵文字使っちゃうな、なんて思う。七瀬くんは別格だけど、先輩もわりと硬派なのだと思う。
少しだけ迷って、「先輩と七瀬くんってどういう関係なんですか」と送ってしまう。直接聞きにくいことを聞けるのがメッセージアプリの良いところだ。
今度はすぐに返事は来なかった。数分の間があって、画面上に吹き出しが飛び出す。
「御恩と奉公……?」と。
私は思わずふふっと息を漏らして笑った。、昨日の歴史の授業でやった気がする。こういう冗談も言う人なんだ。
さらに返事をしようと親指を画面上にスライドさせた時、微かな物音がした。音のした方へ視線を向けると、閉めていたはずのクローゼットの戸がほんの少しだけ開いていた。
来た……。
途端、落ち着きを取り戻していた気持ちが昂り、どくん、どくんと心臓の音が大きくなっていくのを感じる。マイとスマホを握る手と腕に力を込めながら、ゆっくりと立ち上がった。
昨日は隙間が開いていただけのクローゼットの戸。しかしじっと見つめ続けていると、その隙間が、どんどんと大きくなっていく。
隙間が隙間でなくなって、影に部屋の光が差し込んでいく。そこに見えたものに、ひゅっと短く、音が立つ程に息を飲んだ。
人の顔だ。昨日見た、そして、今日新聞で見たそのままの、ニタリと笑った男の顔。それが床から二十センチくらいの低い所にある。
中で寝そべっているのか?
恐怖の中、何故かやけに冷静に浮かんだ疑問は、その戸が人の頭が通れる程に開いた瞬間に解けた。
戸の間から頭を窮屈そうに出し、うぞりと這い出してきたのは、人の頭がついた、黒く萎れた野菜のような細い体。
生前そのままのように見える顔には明らかにアンバランスな体には辛うじて四肢があるようだが、立ち上がることもままならなさそうな、細く皺々の弱々しい姿。それが、ずりずりと床の上を這って近づいてくる。
瞬間、鼻の奥をつくような強烈な腐臭が漂う。それは、異形の体から染み出している黒い液体からしているようだ。黒い液体は異形の這いずって通った跡として、フローリングの上にくっきりと残されている。
悲鳴は上げなかった。正確には、上がらなかった、という方が正しい。喉の奥で何かが詰まったように声が出ず、ただ口をぱくぱくと動かすしか出来無い。
足から力が抜けて、崩れ落ちるように床の上に座り込む。それでも近寄ってくる異形からできるだけ距離を置きたくて、座り込んだままずりずりと背後に移動する。するとすぐに、背中にカーテン越しの冷たい窓の感触が当たった。出来る限り体を縮こまらせて、スマホを胸の中に抱え込む。
異形は何の言葉も発しなかった。ただ、ニタニタととても楽しそうに笑っている。よく耳を欹てて聞けば、その首元の辺りからひゅーひゅーという風が抜けるような音がして、私は先輩が読み上げた新聞記事の内容を思い出していた。
異形がおぞましく黒く皺だらけの手を伸ばす。
間近に迫ったその手が、私の縮こまらせた裸足の指先に触れかけた、その瞬間。
背後から声が聞こえた。
窓の向こうから、一定のトーンで紡がれる、まるで何か古い詩でも吟じているかのような美しい声。
背中に触れた窓が次第に熱くなっていく。その熱に体を包まれ、守られているような心地がして、ぽろぽろと涙が溢れだす。
異形はまるで全身を見えない何かで縛り付けられているかのように動きを止めた。そして、ぎょろりとした男の瞳だけが私を捉える。
「合田勤」
呪文のような言葉の中で、ただはっきりと耳に届いたのは、男の名前。
瞬間、パンッと誰かが柏手を打ったかのような高い音がして、異形が崩れ落ち、黒い粒子のように霧散する。煙のようなものが立ち上り、気がつけばあの体が垂らしていた黒い液体も跡形もなく消えていた。
「あ……っは、ぁ……」
ようやく、私の口から大きく息が漏れ出す。声を震わせながら喘ぐように呼吸を繰り返し、思わず放心してしまう。
その時、背中をつけていた窓が動いた。
慌てて体を離すと、窓を開け、カーテンをくぐるようにして先輩が出てくる。その腕には、目を閉じ、脱力している七瀬くんが抱えられていた。
先輩は涙を流しながら腰を抜かしている私を見留めると、どこか申し訳無さそうに眉を寄せる。
「大丈夫だったか、穂香ちゃん」
「あ……は、はい……七瀬くん、は……?」
「力を使うと気を失うみたいなんだ。休めば治るらしいから」
「そう、ですか……」
七瀬くんを抱えたまま、先輩は私と目線を合わせるようにしゃがんでくれる。それだけの仕草に、先輩の大きな優しさを感じた。
「俺は白を届けないといけないんだが。一人で大丈夫か? ごめんな、怖い時側にいてやれなくて」
先輩はそう謝ってくれたが、これも全て、七瀬くんの計画通りなのだ。先輩が謝ることじゃない。
覗くものを完全に退治するには隙間から出てこさせる必要があって、あれは私以外の人がいると出てこないのだと言っていた。覗くものは私だけしか見ていないからと、七瀬くんと先輩は、私よりも先に私の部屋に入り、あれに気づかれないようにベランダに出て、ずっと待機してくれていたのだ。
まさかあんなに恐ろしい物が出てくるとは思ってもいなかったけど。先に教えられていたら、やる勇気は出なかったかもしれないから、何も知らなくて良かったのかも。
「いいえ、ずっとそこにいてくれるって分かっていたので、頼もしかったです。七瀬くん、うちで休ませていきますか? ベッド使ってもらって大丈夫ですよ」
話をしていると少し落ち着いてきて、ようやくそのことに思い至る。部屋のベッドを勧めたけど、先輩は再び立ち上がって首を振った。
「ありがとう、でも、薄紫さんのところに届けないと……穂香ちゃんがそう遠くないところに住んでてよかったよ」
薄紫さん、というのが誰のことかは分からないけど、何か理由があることは分かった。何か二人の間に入り込めないような空気を感じて、私はただ両親に見つからないように、こっそり二人を見送ることしか出来なかった。
玄関から戻ると、そこには当然、一人きりになった部屋がある。先程かいだ強烈な腐臭は、あの異形の姿と共に跡形もなくなくなっている。
さっき目撃し、身に迫った恐怖を思い出すと体が震えるけれど。
窓にゆれるカーテンの隙間を見つめても、前のような恐怖は感じない。もう終わったのだと、本能で理解する。
そこに何故か七瀬くんを抱えながらくぐって出てきた先輩の姿を思い出し、何故だかそっと、笑みが溢れた。
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