四 -2-
――その昔、この地には神がいた、と言われております。
途方も無いお話ですが、言い伝えの類だとご了解ください。
ここでの神とは、私達がいるこの次元を作った者のこと。そして、神はこの次元を守るため、他の次元からの干渉を受けないように、次元の境を守っておられました。
しかし、時は八百六十九年……ちょうど貞観地震と呼ばれる未曾有の地震が起きた、平安時代のこと。神はある一人の男に世の理を授け、この次元から姿を消してしまいました。神は死んだ、とも、この次元を見捨てた、とも言われておりますが、その真相はよく分かっておりません。
さて、その理を授けられた男は神の代理人として、神代と名乗りました。
そう、ここ神代町の名は、神代一族が由来となり、町の成り立ちの中心にあるのです。
神代の仕事はただ一つ。神から授かった理を用いて、次元の境を守ること。
神の果たしておられたお役目は決して簡単なことではなく、神代は幾度もの苦境に立たされましたが、そうして苦難を乗り越える度に貯まっていく知見が、神代の力を増していきました。
しかし、人の命は無限ではなく、神代が死んでは理が失われてしまう。
そこで、老いた神代は親族に生まれた赤子に、己の人生の全て、神から授かった全てを言い伝え、次の神代としたのです。
この策は、初代神代の想定していた以上に機能しました。
次の神代も、また次の神代も、そうして赤子に全てを伝えることで、理と知識と経験を残していき、その形式と術が完成したものが、『口伝術』として今に伝わっています。
『白』と呼ばれる生まれたばかりの赤子に、百人余りもの『口伝師』と呼ばれる者が、分担して記憶した理と知識と経験を何年もかけて伝えます。
それは知識として教わるという話ではなく、八百六十九年から連綿と続く神代の全てを、まるで己が実体験したかのように会得する術です。なので歴代の神代は皆、同一人物と捉えて差し障りないものであると、私は教わっております。
体を換えながら、永久に生き続ける神の代理人。
つまり白様は、千年以上もの時を生きてきた記憶を持ち、理を行使します。
しかし、それだけの膨大な記憶は、人の身にはあまりに負担が大きすぎるのです。より深く記憶を掘り起こさねばならない時、白様の体は限界を迎えます。
薄紫が語り終え、静かに口を閉じたのと対象的に、俺の口はぽかんと開いていた。
平安時代だとか、神だとか、まさかここまで壮大な話をされるとは思ってもみなかった。だがその一方で、全てが腑に落ちている自分がいる。
「白は……その、赤ん坊の時に選ばれて、神代っていうのになるために、教育された、と、いうことですか?」
「分かりやすく言えばそういうことになります」
「白は真名じゃないとは言ってたけど……」
「白は生まれた後すぐに浮世での生を捨て口伝術を授けられます。なので白様は、ご自身としてのお名前は持っておられません。白とは、神代に選ばれた赤子の呼び方ですが、大きくなられてからもそうお呼びするのが習わしです。さすがに日頃から神代様とお呼びするのは障りがありますので」
俺は聞かされた内容を自分の中で噛み砕きながら、目の前で眠る、青ざめた白の顔を見つめた。普段から尋常ではない気配を纏う白だが、こうしていると、学ランを着たただの高校生だ。
「いままでの記憶が全部あるなら、白って別に学校なんか来なくても良いんじゃないですか」
不意に浮かんだのは、素朴な疑問だった。平安時代からの記憶がある人物に歴史の授業をするとか、抱腹ものの話なのではないか。
「白様の口伝術が完成したのは去年の冬ですので、それ以前はこのお屋敷から出たことはありませんでした」
「屋敷から出たことがない?」
「はい。日中の大半を、先程松前様も入られた真殿で口伝術を受けて過ごされ、時折庭に出て運動をなさる位で。口伝術が完成された後、はじめて白様が自らご要望されたのが、あの神代高校へ通うことでした」
「それは、どうして……」
俺は疑問の言葉を漏らしかけたが、薄紫の表情を見て口を噤んだ。
薄紫はどこか切ない、しかしとても嬉しそうな微笑みを浮かべて俺を見ていた。
「松前様が、いらっしゃったからでしょう」
「俺?」
予想外の言葉に驚いたその時、白の瞼が開いた。
「あの高校は、今、次元の境が一番緩んでいる地点だからですよ」
そして、開口一番何の感情も乗らない声で薄紫の言葉を上書きする。
俺たちの話を少し聞いていたのだろうか。俺はそんな白の姿を見て、無意識に強張っていたらしい体から力が抜けていくのを感じた。
「白、良かった。大丈夫なのか」
「この程度、何でもありません」
「ぶっ倒れるなら倒れるって先に言っといてくれないか」
「見たほうが早いでしょう」
「心配するだろ」
「してくださったんですか? 心配」
まったく小憎たらしい受け答えだ。
頷いたら負けた気がして固まっていると、白がゆっくりと体を起こす。薄紫がそれを助けるように手を差し出したが、白は片手を上げて制した。
「薄紫、スケが着て帰る用の着物を用意してください」
「かしこまりました」
言いつけられた薄紫は、一度頭を下げると部屋を出ていく。薄紫さんがどういう人なのかは未だよく分からないが、白に従う人であることは分かる。
「俺が着て帰る着物ってどういうことだ?」
「この屋敷周辺は次元の境が強固なので、この世ならざる者たちは屋敷に近づくことが出来ないのです。つまり近づくものは、この屋敷の周りで貴方が出てくるのを今か今かと待っている、という訳ですね。そこで、別の衣服を着て出ていくと、あれは貴方を完全に見失う」
実に分かりやすい話だが。
「服を変えたくらいで騙されるのか? 俺だって今まで何度となく服は着替えてるが」
「今だからこそ効き目があるのですよ。もっとも効果の大本は、おれが先程施した、貴方の体に別の名前を与えたことですが……いいですか? この偽装が通用するのは、貴方が次に真名で呼ばれるまでです。決して呼ばれないように。そして、もし呼ばれてしまったとしても、絶対に返事をしないこと。守れますね?」
まるで幼い子どもに言い含めるような口調だが、俺は素直に頷いた。白が俺を守るために、意識を失ってまで策を施してくれたことは分かっている。
「よろしい。では次にこれを、常に持ち歩いていなさい」
そう言って、白は立ち上がると文机の引き出しから、小さな紙片を取り出して俺に手渡した。
紙は丸い部分と長方形の部分がくっついた形状に切られていて、見ようによっては人型のようにも見える。胴体部分の中央には、紙が丸く焦げた跡がついていた。
「これは?」
「式神です」
「式神って、よく映画とかで陰陽師が使うやつか? ただの紙に見えるんだが」
「おれの力が通らなければ、ただの紙です。式神とは、元々は式に色紙の紙で、式紙と書くのですよ」
無駄な知識がついてしまった。一体何故そんなただの紙を持たせるのかと、説明を聞くために俺は黙る。すると白は、俺が期待した通りに話し始めてくれた。少しずつ、白との付き合い方が分かってきた気がする。
問いかけると端的にしか答えないので、説明してくれるまで待てば良いのだ。
「式神が熱くなったらおれの所に来なさい。おれの居場所は、式神が教えてくれます」
「どうやって?」
「なんとなく行きたくなる方角が、おれがいる方角です」
「そんな適当でいいのかよ……」
式神が空を飛んで先導してくれる、とかではないのか。勝手にファンタジックな想像をしてしまって、少しだけがっかりする。
この紙が一人でに動く、とかいう仕組みなのであったら見てみたい気持ちがした。
「というか、それなら普通にスマホでメッセージ送り合うとかでいいんじゃないのか」
がっかりついでに、式神を持て余して掌の上に乗せたまま軽く反論してみる。と、白は不思議そうに目を瞬かせた。予想外の反応だ。
「スマホ?」
「スマホ……知らないのか?」
白はこくりと頷く。なんとなくその仕草が幼くて、はじめて彼が年相応に見えた。
俺は制服のズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
白に画面が見えるように持ちながらメッセージアプリを起動して、適当に隼人へ「今何してる?」と送ってみる。
するとすぐに「テレビ見てる。アイドルのキャリー結婚したってさ」と返事が来た。
「技術も進歩したものですね……」
その様子を食い入るように見つめていた白は、実にしみじみと呟いた。この様子を見れば、先程の薄紫さんの話してくれた内容が嘘ではないことが実感できる。
今どき、スマホを知らない高校生など存在しないだろう。
千年以上の記憶を保持しているらしいのに、スマホすら知らないのか。出かけた皮肉の言葉は飲み込んだが、俺が言いたかったことは白に伝わったようだ。
「先代の白は、八歳で亡くなりました。その前の白は十一歳。さらにその前に至っては四歳です。彼らの肉体は口伝術に耐えきれなかった。つまり、おれの記憶はここ四十年近く途絶えています。最新の技術には疎いのです」
言い訳のように教えられた事実は、しかし俺を別の方面で驚かせる。
そんなに幼い子供が、何人も死んでいるなんて。白が去年の冬まで屋敷から出たことがなかったという話にも違和感を覚えたのだが、その口伝術というのは、本当に真っ当なものなのだろうか。
「神代って、そんな犠牲を払ってまで必要なものなのか」
思わず出た呟きは、白の無言の、しかし穏やかな微笑みに受け止められた。
白が神代そのものであるのならば。
俺は、残酷な問いかけをしてしまったのかもしれない。
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