強奪
「ふざけるんじゃねぇ!」
静まり返った部屋の中に突如として怒声が響き、次いで拳が乱暴に机に打ちつけられた。さっきまでえびす顔で座っていた尚慶は、今や獰猛な犬のように、ぎらぎらとした目で麗二を睨みつけている。その凄まじい剣幕を前にし、麗二は気圧されて身を引いた。
「……クソが、何のために俺がここまで来たと思ってるんだ!」
尚慶が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「俺はな、あの人魚を手に入れられると思ったから、てめぇみたいな落ちぶれた小僧の家までわざわざ来てやったんだ。
それが何だ。僕がシオンを守る? シオンを売るつもりはない? 文無しの餓鬼の分際で、一丁前に気障な台詞ほざいてんじゃねぇ!」
尚慶は一気にまくしたてると、まだ怒りが収まらないのか、再び両手を机にがんと打ちつけた。
麗二は呆気に取られて尚慶を見つめた。ずっと紳士らしい態度を装っていたが、どうやらこれがこの男の本性のようだ。もし、シオンがこの男の手に渡っていたら――麗二は身震いしてその想像を打ち消した。
とにかく今は、一刻も早くこの男を追い出さなければならない。麗二は表情を引き締めると、すっくと立ち上がって尚慶を見下ろした。
「いくら口汚く罵られようと、僕の気持ちは変わらない。僕はシオンを売るつもりはない。わかったらもう金輪際、僕の周りに近づかないでもらいたい」
麗二はそれだけ言うと、入口の扉の方に歩いて行った。廊下で控えている鳩崎に命じて、この男を家からつまみ出させるつもりだった。
「……ちょいと待ちなよ、坊ちゃん……」
尚慶が後ろで呟くのが聞こえた。麗二は足を止めた。
「何もそう焦ることはない。あんたに交渉するつもりがないのはよくわかった。だがな、世界を股に掛けるこの尚慶様が、何の手土産もなしに、馬鹿面下げてむざむざ帰れると思うか? 俺にも蒐集家としてのプライドがあるんでな……」
尚慶はそう言うと、おもむろに携帯電話を取り出してどこかに電話を掛け始めた。麗二は怪訝そうに尚慶を見つめた。
「……あぁ、俺だ」尚慶が電話の相手に向かって言った。「そうだ、例の件で。準備はできているな? ならいい、すぐに取り掛かれ。なに、遠慮はいらん。金に糸目はつけんと言っただろう。目的のブツが見つかるまで、徹底的にやれ」
尚慶はそれだけ告げると、さっさと電話を切ってしまった。麗二は嫌な予感がした。何か不穏な響きが、今の短い会話の中に含まれていた。
「おい、今の電話は何だ。貴様、いったい何を……」
麗二がそう問い詰めようとした時だった。突然外から悲鳴が聞こえ、次いでいくつものどたどたとした足音が耳に飛び込んできた。
麗二ははっとして入口の方を振り返った。屋敷の中で、何か大変な事態が起きたようだ。麗二は事態を確かめようと、急いで入口の扉を開けて廊下へ飛び出した。
「坊ちゃま!」
麗二が廊下に出るや否や、鳩崎が血相を変えて走って来るのが見えた。何が起こったのかを麗二が尋ねようとした時、階段の下から品の悪い叫び声が聞こえてきた。麗二が手すりから身を乗り出して様子を窺うと、見るからに柄の悪そうな何人もの男が、屋敷の中を好き勝手に荒らし回っているのが見えた。麗二は目を丸くしてその光景を見つめた。
「坊ちゃま!」
耳元で再びそう呼ばれ、麗二ははっとして振り返った。息を切らした鳩崎が麗二の傍に立っている。麗二は鳩崎に詰め寄った。
「鳩崎! これはどういうことだ!」
「私にもわかりません」鳩崎が首を振った。「先ほど、あの者達が突然屋敷になだれ込んできて、人魚を出せと私達に命じたのです。そんなものはこの家にいないと言うと、今度はあのような狼藉を働き始め……。私も止めようとしたのですが、何せこの老体では……」
鳩崎はそう言うと急に顔をしかめ、右腕を庇うように押さえた。麗二がその方に視線をやると、燕尾服が切れ、そこからうっすらと血が滲んでいるのが見えた。どうやらあの連中と格闘し、負傷したらしい。
麗二は思わず眉を下げた。こんな年老いた身体でありながら、この男は執事としての役目を果たすため、懸命に屋敷を守ろうとしたのだ。そんなことも知らず鳩崎を怒鳴りつけてしまい、麗二は自分が恥ずかしくなった。
「だが、どういうことだ?」麗二は不可解そうに尋ねた。「あの連中はいったい何者だ? なぜ突然人魚を出せなどと……」
「なに、簡単なことです。あっしが雇ったんですよ」
不意に後ろから声が聞こえ、麗二は驚いて振り返った。尚慶が、面白くもなさそうな顔をして階下の様子を眺めている。
「坊ちゃんのような高潔なお方には理解できないかもしれませんが、この世の中には、金さえ積めば何でもする連中が山ほどいるんでね。人魚を見つけたら好きなだけ報酬をやると言ったら、連中、簡単に尻尾を振ってきましたよ」
尚慶が平然と言った。厚顔そのものの顔を見て、麗二の内側から義憤が一気に込み上げてきた。
「……まさか、最初からそのつもりだったのか? 僕の答えが何であろうと、力ずくでシオンを奪おうと……!」
「こういうやり方は、あっしとしても本意ではないんですがね」尚慶が悪びれもせずに言った。「まぁ今回に関して言えば、坊ちゃんがわざわざあっしを屋敷にお招きくださったわけですから、いざとなれば強硬手段に訴えるのも一つの策だと考えたわけですよ」
麗二は腸が煮え繰り返るような思いで目の前の男を睨みつけた。何という恥知らずな男なのだろう。人の屋敷を蹂躙しておきながら、顔色一つ変えずにいられるとは。麗二はこの男を殴りつけたい衝動に駆られ、とっさに拳を振り上げようとした。
その時、階下から何かが大きな音を立てて割れるのが聞こえた。男の下品な笑いと、使用人の悲鳴が麗二の耳を劈く。それが麗二の意識を現実に呼び戻した。今はこの男に怒りをぶつけている場合ではない。父が大切に守り抜いてきたこの屋敷が、あんな下卑た連中に侵されているのを黙って見ているわけにはいかない。
そして何よりシオンだ。連中はシオンを狙っている。たとえ自分が死んだとしても、シオンを尚慶のような男の手に渡すわけにはいかない。何があってもシオンを守ると、そう決めたばかりではないか。
麗二はきっと表情を引き締めると、踵を返して階段を駆け下りて行った。
「坊ちゃま! お止めください!」
鳩先が制止する声が聞こえたが、構わなかった。麗二は階下に降り立つと、男達をぐるりと見回して叫んだ。
「止めろ! 貴様達、ここをどこだと思っている! ここは僕の父、高瀬川博文の屋敷だ!勝手な真似をすることは許さん!」
「逃げ出した社長の息子が、何か言ってるぜ!」
男の一人が言い、他の仲間も声を立てて笑った。麗二の身体はかっと熱くなった。父を侮辱されたことへの怒りが沸き立ち、震える拳をぐっと握り締めなければならなかった。
「黙れ!」麗二は怒りに我を忘れて叫んだ。「僕のことならば何を言われても構わん。だが、父を……父を侮辱することだけは許さん! 父は逃げ出してなどいない! 父は必ず帰ってくる! そのためにも、貴様達にこの屋敷を好きにさせるわけにはいかない!」
麗二がそう叫んだ時だった。不意に後頭部に衝撃が走り、麗二は思わず頭を抱えてその場に膝をついた。何が起こったのか、すぐにはわからなかった。ただ、頭の中で絶え間なく何かが反響するような音がして、それに合わせて頭がくらくらと前後に揺れる。殴られたのだと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
「その辺にしておいた方がいいでしょうな」
不意に後ろから声が聞こえた。麗二がはっとして振り返ると、いつの間にか一階に降りてきていた尚慶が後ろに立っていた。
「奴らは気性が荒いんでね。今は拳で済みましたが、あんまり口うるさく喚いていると、今度は何を振り下ろされるかわかりませんよ」
尚慶が言った。麗二は頭を抱えたまま、苦々しげに男達の方に視線を戻した。男達は麗二のことなど気にも留めず、再び屋敷の中を荒らし回っている。何人かの者達はすでに二階に上がり始めていた。
麗二は立ち上がろうとしたが、足にまるで力が入らなかった。麗二は自分が情けなかった。何があってもシオンを守ると決めたのに、このまま何もできずに、彼女が奪われるのを黙って見ているしかないのだろうか。
不意に誰かの手が自分の肩に触れた。麗二が顔を上げると、心配そうに自分の方を覗き込んでいる鳩崎の顔があった。自分がさぞみっともない顔をしているだろうと思い、麗二は咄嗟に顔を隠そうとした。だが、鳩崎は何も言わず頷くと、そっと包み込むように麗二の肩を抱き寄せた。それはまるで、他の者達の目から麗二を守ろうとしているように見えた。
その瞬間、不意に麗二の中で何かが切れた。麗二は鳩崎の胸に顔を埋めると、もはや惨めさを隠そうともせずにむせび泣き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます