海が呼ぶ声

 サラの言った通り、その夜、麗二は再び屋敷に帰ってきた。

 シオンは何となく落ち着かず、自室の中を行ったり来たりしていたが、足音が近づいてくるのを聞くと、急いで電気を消してベッドにもぐり込んだ。扉を開けて確かめずとも、その足音が麗二のものであることはわかった。心臓の鼓動が速まるのを感じながら、ぎゅっと目を瞑って眠っている振りをする。

 やがて扉が開く音がして、麗二が中に入ってくる気配がした。シオンは扉に背を向けた格好で、なるべく自然に聞こえるようにゆっくりと呼吸を繰り返した。

 麗二の足音はゆっくりと自分の方へ近づいてくる。シオンはドキドキしながらその音を聞いていた。麗二はいったい何をするつもりなのだろう?

 不意にぴたりと足音が止まった。シオンは不思議に思いながらも、麗二の気配が近くに感じられたので、何とか目を開けるのを堪えた。麗二はそのまま動かず、じっとシオンを見下ろしているようだった。

 そうしてしばらく時間が経った後、足元の布団がそっと捲られた。シオンは動悸が速まるのを感じながら、懸命に目を開けたい衝動を抑えなければならなかった。

 そうして数分が経った後、シオンは麗二の気配が遠ざかっていくのを感じた。小さく扉の開く音が聞こえ、すぐに閉められる。それを聞いてシオンはようやく目を開けると、ゆっくりと寝返りを打って扉の方を見た。目を凝らして部屋の中を見回してみたが、室内に麗二の姿はなく、足元の布団が少し捲られたままになっているだけだった。布団とシーツの間からは、すでに見慣れたものとなっている自分の足が覗いている。

 その瞬間、シオンは唐突に麗二の行動の意味を理解した。麗二は確かめようとしたのだ。昨日自分が見たものが本当であったのか、それとも悪い夢であったのかを。人間の姿のままであるシオンを見て、麗二は何を思ったのだろう。安心しただろうか。昨日見たものは夢であったと思い、またあの優しい笑みを向けてくれるだろうか。そんな楽観的な考えがシオンの頭を掠めたが、すぐに首を振ってそれを打ち消した。

 麗二は自分が人魚であることを知ってしまった。一度それを知った以上、どうやっても元の関係には戻れないだろう。麗二だってそれはわかっているはずだ。それでも確かめずにはいられなかった。シオンは人魚ではないと、そんなありもしない可能性に縋らずにはいられなかったのだ。

 暗く、静まり返った部屋の中で、シオンはぼんやりと自分の足元を見つめた。もうすっかり違和感のない白い足。それを見ていると、シオンは自分が人魚であった時のことが急に懐かしく思えてきた。海の中で自由に泳ぎ、魚達と歌ったあの日々。もう二度と戻れない生活。それを思い出すと、シオンは胸が締めつけられるような気がしてきた。

(私はずっと人間に憧れて、人間と共に生きたいと思っていた……。でも……それは間違っていたのかもしれない)

 人間になってからの日々の記憶が脳裏に蘇る。最初の頃こそ、シオンは人間の世界の様々な物に触れることを楽しみ、自分が人間として生きられることに喜びを感じていた。

 だが、人間の世界で居場所を失った今となっては、自分の選択が浅はかなものだったと思わずにはいられなかった。自分に居場所を与えてくれた麗二さえ、今や他人のようによそよそしくなってしまった。

(どうしてこんなことになってしまったんだろう……。私はただ、お母さんに会いたかっただけなのに……)

 母と過ごした日々の光景が頭に浮かぶ。あの海で母と並んで泳ぎ、並んで歌い、並んで眠った時間。目を開ければいつも母が隣にいて、淡い金色の髪をなびかせながら、自分に向かって優しく微笑みかけてくれた。それはシオンにとってかけがえのない時間であり、永遠に続くと信じていたものだった。

 シオンはその時間を取り戻したかった。人間の世界のどこかで母と再会すれば、また二人で暮らせるものと信じていた。

 だが実際には、シオンは知りたくもない母の真実を知っただけだった。

 母が一人の人間の命を奪ってしまった、その事実は重い楔となり、シオンの心を海底へと沈みこませていった。そしてなおも母の消息は知れない。それでは自分が人間になった意味など、何もなかったということではないか――。

 その時、シオンの視界の端で何かがきらりと光るのが見えた。シオンがその方に視線をやると、窓辺にある机に置かれたあのナイフが見えた。シオンはぼんやりとそれを見つめていたが、やがてゆっくりと立ち上がると、何かに導かれるかのように机の方へ近づいていった。

 窓辺に立ってナイフを見下ろす。頭上から差し込む月の光を受け、持ち手の深い青色はいっそう幻想的に輝き、そこに縁どられた真珠もまた美しく瞬いている。海をそのまま閉じ込めたようなその造形は、シオンの郷愁を呼び起こすのに十分な力を持っていた。

 シオンは無意識のうちにナイフを手に取ると、じっとそれを見下ろした。


『魔法を解く代償として必要なのは、自分が一番愛する者の命。このナイフを使ってそいつの命を奪えば、魔法は解け、アンタは元の姿に戻れる』


 昼間聞いたサラの言葉が繰り返される。何度も何度も、まるで悪魔の囁きのように、いくつものサラの声がシオンの中に響いて鳴り止まない。

 シオンは両手で頭を抱え、声を聞くまいと必死に耳を抑えつけた。だが、抑えようとすればするほど声はいっそう激しく鳴り続け、執拗にシオンをけしかけてくるようだった。シオンは必死に声を振り払おうと、身体を捩ってその場にしゃがみ込んだ。

 だが次の瞬間、不意に全ての声が止み、シオンははっと息を呑んだ。恐る恐る両手を耳から外すが、やはり声は聞こえない。部屋は何事もなかったかのように静まり返り、風がカーテンを揺らす音だけが辺りに響く。

 シオンはそろそろと立ち上がると、開いた窓から外を見下ろした。海はいつもと変わらずに凪ぎ、静かに打ち寄せる波の音が聞こえる。冷気を含んだ風が頬を撫で、動揺したシオンの心を沈めていく。


『シオン』


 その時、外から誰かが自分を呼ぶ声が聞こえ、シオンは思わず窓から身を乗り出した。月光を浴びた黒い海面に、何かの影がぼんやりと浮かび上がっている。波打つように広がる淡い金髪。海と一体となった濃紺の鰭。

 それを見た瞬間、シオンは呼吸が止まるほどの衝撃を覚えた。咄嗟に手で口元を覆い、窓枠に手をついてよろめく身体を支える。そうだ、見間違えるはずがない。あの姿はどう見ても――。

「……お母さん?」

 シオンは無意識のうちに呟いていた。自分の目が信じられないように、母の姿を凝視する。母は仰向けの格好で海面に横たわり、自分に向かって微笑みかけている。ただの幻だったのかもしれない。でもシオンには、確かに母がそこにいるように感じられた。

 母の姿を見つめているうちに、シオンは次第に頭の中に靄がかかっていくような感覚を抱き始めていた。人間になってからの思い出も、海の世界で過ごした追憶も消え、あるのはただ、再び母に巡り会えたという安心感だけだった。

「何だ……お母さん……。そこにいたんじゃない……」

 自分でも気づかないうちに、涙がシオンの頬を伝っていた。口元には自然と笑みが浮かび、安堵が胸のうちに広がっていく。

 そうして随分と時間が経った後、シオンはそっと屈みこんで足元から何かを拾い上げた。立ち上がったその手に握られていたのは、あの運命のナイフだった。

 帰らなければならない――。シオンは宿命的にそう考えた。母は自分を置きざりになどしなかった。シオンが愛したあの海に、最初から母はいたのだ。母は今も自分を待っている。あの美しい海で、娘の帰りを待ち続けている――。

 シオンは窓に背を向けた。うつむいた顔から笑みは消え、今や何の表情も浮かんでいなかった。ただ、目だけは異様な光を放ち、並々ならぬ決意を漲らせている。

 何かに操られるように、シオンはゆっくりと扉の方へと歩いていった。

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