眠りについて

 もし、誰か一人でも使用人が起きていて、何かに憑かれたような顔をして廊下を歩いているシオンの姿を目撃したら、そしてその手に握られているものを目にしたら、結果は違っていただろう。

 だが実際のところ、夜半を迎えた屋敷は静まり返っていて、誰一人として異変に気づく者はいなかった。だからシオンは、誰にも見咎められずに麗二の部屋に行くことができた。

 その日、麗二は疲れ切っていた。父親が失踪してから早一週間、会社の負債を返済する目途はまるで立たず、マスコミからの非難を浴び続ける中で、追い打ちをかけるように昨夜の一件があった。度重なる辛い現実を前に、麗二の繊細な精神はもはや限界に達していた。だからシオンが部屋に入ってきても麗二は目を覚まさず、死んだように眠り続けていた。

 シオンはゆっくりとベッドの方に近づいて行くと、傍に立って麗二を見下ろした。今やすっかりやせ細り、老け込んで見える麗二だったが、それでもそこには、かつてシオンが愛した優美な面影がわずかに残されていた。初めて麗二に会った時の胸の高鳴りを、シオンは今も忘れてはいなかった。

「麗二……」

 シオンは思わず呟いていた。人間の世界で誰よりも愛した人。その命を自らの手で奪わなければならないなんて、これほど残酷なことがあるだろうか? ナイフを握る右手が震え出し、シオンは自分のやろうとしていることが急に怖ろしく思えてきた。

 気がつくとシオンは後ずさりを始めていた。今ならまだ間に合う。このまま部屋を出て、何事もなかったように引き返せば―。


『シオン』


 その時、またしても母の声が聞こえた気がして、シオンははっとして足を止めた。海面から自分を見つめる母の姿がぼんやりと浮かび上がる。だが、その時見えた母の表情は、部屋で見たものとは少し違っていた。まるで娘との別れを惜しむような、寂しげな微笑み。そんな母の表情を前に、シオンは心が引き裂かれるほどの痛みを感じ、咄嗟に左手を胸に当てた。

 そうだ、母は今も、あの海で自分の帰りを待っているのだ。自分は母がいない間、ずっと寂しい思いをしてきた。母に同じ思いを味わわせるわけにはいかない――。

 シオンはしばらくその場に立ち尽くしていたが、再びベッドの方に近づいていった。手前まで戻ってきたところで、もう一度麗二を見下ろす。静かに寝息を立てるその表情はとても穏やかで、こんな顔をした麗二を見るのは久しぶりだった。

 シオンは目を細めて麗二を見つめた。麗二にとって、眠りについているこの時間は、束の間の安らぎとも呼べる時間なのだろう。過酷な現実から逃れ、夢の世界へと身を委ねられる時間。

 だが、ひとたび目を覚ましてしまえば、麗二は現実の中で再び精神を蝕まれることになるだろう。だったらいっそ、このまま目を覚まさない方がいいのではないだろうか? 苦しみも悲しみもない世界の中で、麗二の魂は永遠に生き続けるのだ。そう考えると、シオンは自分の行動が正しいことのように思えてきた。

 シオンはなおも麗二の顔を見つめていたが、やがて静かに右手を持ち上げた。左手を添え、大きくナイフを振りかぶる。不意に雲が月を覆い、部屋は一瞬で闇に包まれた。


 次の瞬間、どすりとした重い音が屋敷中に響き、それを聞いて使用人達が目を覚ました。

 真っ先に部屋から出てきたのは鳩崎だった。鳩崎の部屋は一階にあるが、音は確かに二階の方から聞こえた。二階で今使われているのは、シオンと麗二の部屋のみ。鳩崎は胸騒ぎを覚え、つんのめるようにして階段を駆け上がって行った。

 階段を上り切ったところで、鳩崎は立ち止まって左右を見回した。左の端は麗二の部屋、右の端はシオンの部屋。一瞬迷った後、鳩崎は左の部屋に向かって駆け出した。

 長い廊下を抜け、部屋の扉の前まで来たところで鳩崎は足を止めた。部屋の中から、女のすすり泣くような声が聞こえてきたのだ。

 鳩崎の背筋に冷たいものが走った。七年前にも同じことがあった。あの時はたまたま現場に居合わせなかったが、後に麗二から聞いたその夜のでき事は、まるで悪夢のようだった。部屋の中から聞こえた女の泣き声。そして扉を開けた先で見たものは――。

「坊ちゃま! 坊ちゃま!」

 鳩崎は一瞬で蒼白になり、普段の冷静さも忘れて扉を乱暴に叩いた。だが返事はなく、ますます女の泣き声が強くなったように聞こえるだけだった。鳩崎は苛立った様子で扉に拳を打ちつけると、扉に体当たりをして部屋の中に踏み込んだ。

 部屋の中は真っ暗で、最初は何も見えなかった。だが、不意に雲が晴れ、月明かりが部屋に差し込む中で、次第に部屋の奥に人影が浮かび上がってきた。

 部屋の奥に見える麗二のベッド。その傍に突っ伏した格好で、一人の女が泣いている。それがシオンであることは明らかだった。

 鳩崎は呆然とシオンの姿を見つめていたが、ようやく恐る恐るベッドの上に視線を移した。

 ベッドの上では麗二が眠っていた。まるで何事もなかったかのように、穏やかに。

 だが、そこには本来あるべきでないものがあった。両腕に顔を埋めているシオンの手に、今もしっかりと握られているのは――紛れもなくナイフであった。


 ナイフの先端は、ベッドの上に突き立てられていた。


 それは麗二の――麗二の身体からほんの少し離れたところの、まだ真新しい白いシーツを切り裂いていた。

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