第六章 郷愁

再会と困惑

 翌朝、冷たい風を頬に受けてシオンは目を覚ました。瞼を擦り、ゆっくりと重い身体を起こす。部屋を見回すと窓が開けたままになっていて、そこから吹き込む風を受けてカーテンが揺れている。未だ覚めきらない意識のまま、シオンはぼんやりとその光景を見つめた。

 近頃のシオンは、夜眠る前にここから浜辺を眺めるのが日課になっていた。浜辺を歩いて麗二が帰ってこないかと、毎日ほのかな期待を抱いて窓の外を眺めては、結局麗二の姿を見つけられずに失意のまま眠るのだ。昨日もそうしていたのだが、どうやら窓を閉めるのを忘れてしまったようだ。

 シオンは落胆して息をついた。昨日もまた麗二に会えなかった。麗二はいつになったら帰ってくるのだろう。

 だが、視線を落としたその先で、シオンはベッドの様子がいつもと違っていることに気づいた。いつもは皺一つなくぴんと伸びたシーツが、一箇所だけ乱れているのだ。まるでそこだけ強い力で握り締めたような跡が残っている。

 シオンは不思議そうにその痕跡を見つめた。自分が寝ている間に、無意識にここを掴んだのだろうか。だが、今まで一度もそんなことをした覚えはない。ひょっとして、夜中に誰かがこの部屋に来たのだろうか。

「麗二……?」

 その可能性が頭に浮かんだ途端、シオンは自然と顔が綻んでいくのを感じた。

 そうだ、きっと麗二だ。麗二は昨日の夜中に帰ってきて、そこで自分を訪ねてきたのだ。だけど自分がすでに眠っていたから、何も言わずに帰ってしまったのだ。もしそうだとすれば、麗二は今この家にいる――。

 シオンはベッドから飛び起きると、大急ぎで身支度を始めた。久しぶりに麗二に会えるのだと思うと、心が浮き立つのを抑えられなかった。

 麗二に話したいことがたくさんある。だけど麗二は疲れているだろうから、自分の話ばかりしてもいけない。そうだ、麗二の話を聞こう。離れている間、麗二には色々なことがあったに違いない。意味はわからないかもしれないけれど、それでも頑張って麗二の話を聞こう。そうすれば、少しでも麗二の助けになるかもしれない――。

 今やシオンの心は麗二に会える喜びで満たされていて、とてもそれ以外のことを考える余裕はなかった。だから、麗二がシオンのベッドの傍に跪き、跡が残るほど強くシーツを掴んだ理由については、少しも考えが及ばずにいた。


 シオンが朝食の席に降りていくと、シオンの向かい側、最近はいつも空席だった奥の席に座っている人物が見えた。物憂げに視線を落とし、心ここに在らずといった様子をしている。以前会った時よりも随分とやつれて見えたが、それは確かに麗二の姿だった。

「麗二……!」

 シオンは席に着くのも待ちきれずに麗二に声をかけた。麗二が帰ってきた。期待がついに現実のものとなったのだ。あまりの嬉しさにシオンは泣き出しそうになった。

「麗二、私、ずっとあなたの帰りを待っていたの」シオンが頬を紅潮させて言った。「あなたに会えない間、私、すごく寂しかった……。あなたにしたい話がたくさんあるの。でも、今はそれよりあなたの話を……」

 シオンは一気にそこまで言ったが、顔を上げた麗二の視線とぶつかった途端に言葉を切った。

 麗二の様子は、普段とはまるで違っていた。あの優しい微笑みは少しも見られず、まるで他人を見るような視線をシオンに向けている。シオンはそれを見て急に不安になった。ここにいるのは、本当に麗二なのだろうか?

 麗二は感情のない目でシオンを見つめていたが、不意にその視線をシオンの足元の方に移した。つられてシオンも視線を落とすと、自分が着ているワンピースの裾が目に入った。麗二と会うのに何を着ていこうか散々迷った挙句、シオンが選んだのは、あのハイビスカスのワンピースだった。シオンが初めて身につけた人間の服。麗二の母のお気に入りで、麗二がシオンに似合うと言ってくれた服。

「……その服」

 不意に麗二が言った。シオンは顔を上げて麗二の方を見た。麗二は鋭い視線をシオンに向けていたが、やがてゆるゆるとかぶりを振って言った。

「……もう、僕の前でそれを着ないでもらいたい。……その服は母を思い出させる。僕は……そんなものを君に着てもらいたくはない」

 麗二はそれだけ言うと立ち上がり、シオンの脇を通って部屋を出て行ってしまった。ほとんど手をつけられていない朝食と、冷えて湯気の立たなくなったコーヒーが後に残される。

 シオンは呆然としてその場に立ち尽くした。あんなに冷たい麗二を見たのは初めてだった。今までならば、この服を着た自分を見るたびに麗二は目を細め、昔を懐かしむような表情を見せてくれたのに――。

 シオンは麗二の態度が急変した理由を考えたが、結局麗二の真意はわからずじまいだった。期待に弾んでいた心は今や沈み、肩を落として1人朝食の席に着く。以前はあんなに美味しく感じられた〈パン〉や〈スープ〉も、今日は全く味がしなかった。

 たぶん麗二は疲れていて、今は母親のことを思い出したくないのだろう。だから自分が母親のワンピースを着ているのを見て、冷淡な態度を取ってしまったのだ。でも、しばらく休んで元気が戻れば、きっとまた元のように優しく接してくれるに違いない。シオンはそう自分に言い聞かせ、ぬるくなってしまった〈コーヒー〉でパンを流し込んだ。

 この時のシオンはまだ、麗二が自分の正体を知ったことに気づいていなかった。だから、麗二が最初に見つめたのが自分の服ではなく、その下に覗く〈足〉であったことも、まるで気づかずにいた。

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